「緋の接吻」

E・S・ガードナー/池央耿訳

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行動派ミステリーの名手ガードナーの面白さが確実にわかる中短編集。ごぞんじペリー・メイスンもの2編(「緋の接吻」「燕が鳴いた」)、ルパンをほうふつさせる胸のすく怪盗レスター・リースもの2編(「インドの秘宝」「レスター・リース作家となる」)を収録。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)  鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かしてペリイ・メイスンものの処女作「ビロードの爪」を発表、見せ場の法廷場面とハードボイルド・タッチで一躍人気作家に。メイスンものだけでも80作にのぼる。レイモンド・バー主演のテレビのメイスン・シリーズは有名。

立ち読みフロア

 レスター・リースはその目にいとも愉快げな光を宿して、見るとはなしに執事の様子をうかがっていた。執事とは表向き、実はこの男、部長刑事のアクリーがレスター・リースを見張るために送り込んだ隠密警官であった。
「それじゃあ何かね、君は狂信的な東インドの僧侶たちが嫌いだって言うのか、スカトル?」
「はい、旦那さま」執事は言った。「あの連中に後を付けられたりするのはまっぴらでございます」
 レスター・リースは煙草入れ《ヒューミダー》から煙草を取ってカチリとライターを鳴らした。
「スカトル」彼は言った。「インドの僧侶が何でまた、人の後を付けたりするのかね?」
「それを申し上げましたら、旦那さまは私がまた何か悪いことをそそのかそうとしているとお思いでございましょう。実を申しますと、旦那さま、私が東インドの僧侶が嫌いだと言いましたのも、ある犯罪事件のせいなんでございます」
「ほう」レスター・リースは言った。
「そうなんでございます」執事は言った。「私、ジョージ・ネイヴン殺しのことを考えておりました」
 レスター・リースは詰《なじ》るような目つきで隠密警官を見た。
「スカトル」彼は言った。「まさか、私をその事件に巻き込もうなんて言うんじゃああるまいな?」
「いえいえ、とんでもございません」隠密警官は慌ててそれを打ち消した。「ただ、もしこの事件に興味がおありのようでございましたら、これはまさに、旦那さまにはお誂え向きの話でございますよ」
 レスター・リースはかぶりをふった。
「駄目だね、スカトル」彼は言った。「たしかに、犯罪事件についてあれこれ考えるのは好きだがね、自分から手を染めるのはごめんだよ。いいかね、スカトル。私にとって、これは知的な遊戯なんだ。新聞で読んだ犯罪事件の絵解きをああでもない、こうでもないと考えるのはなかなか面白いよ」
「ええ、旦那さま」隠密警官は言った。「ですから、これはまさに、旦那さまがあれこれお考えになるのに持って来いの事件なんでございますよ」
 レスター・リースは溜息を吐いた。「お断りだよ、スカトル」彼は言った。「考えてみようとも思わんね。なあ、スカトル。部長刑事のアクリーは、私のささやかな楽しみを知っている。で、あの男は私のことを、泥棒どもの稼ぎを横からさらう大悪党だと言い張るんだ。そうじゃないと説得しようにも、こっちはなんの証拠も持ってはいない。だから、私はもうこのお遊びも止めにした方がいいと思うようになったのさ」
「そうはおっしゃいますが」執事は言った。「いくらアクリー部長刑事でも、旦那さまがご自分のお宅で何をなさっておいでか、逐一《ちくいち》知っているはずもございませんでしょう」
 レスター・リースは悲しげに頭をふった。「そう思うだろう、スカトル。ところが、あのアクリーのやつは、どういうわけか、私の考えてることをいつの間にかちゃあんと知っていやあがる」
「そのようでございますね、旦那さま」執事は言った。
「ジョージ・ネイヴン殺しについてはお読みになりましたですか?」
 レスター・リースは眉をひそめた。「たしか、宝石泥棒を働いたか何かしたんじゃあなかったかね、スカトル?」
「そうなんでございます」隠密警官は膝を乗り出した。「探検家でございましてね、インドの密林を広く探検しておりました。密林の寺院についてはいくらかご存じでいらっしゃいましょう、旦那さま?」
「ジャングルの寺がどうかしたかね、スカトル?」
「インドは豊かな国でございます」隠密警官は言った。「黄金とルビーの国でございます。未開の密林地帯のある地方では、原住民たちが財宝をふんだんに使って偶像をこしらえております。深い密林の奥の、シバ教徒の土地に邪神の王ヴィナヤカを祀《まつ》った大きな寺がございました。そこに、それは美しいルビーがあったんでございます。鳩の卵ほどもあろうかという大きなもので、サンスクリットを刻んだ金の台に嵌《は》められておりました」
 レスター・リースは言った。「スカトル、あんまり誘惑するなよ」
「どうも、申し訳ございません、旦那さま」
 リースは言った。「まあ、その話はそこまでにしておこう、スカトル。いつもそうだが、一つ聞くともう一つ、もう一つということになってしまう。そうやっているうちに……ああ、一つだけ聞かせてくれ・ジョージ・ネイヴンはその宝石を手に入れたと考えられていたわけだな?」
「そうなんでございます。どうしたものか、あの男はそれをその寺から持ち出したんでございます。自分では決して認めておりませんのですが、ヒンズー教の宗派の特徴を扱った彼の本に、その宝石の写真が載っているんでございます。ところが当局筋は、寺院内で写真を撮ることは絶対にできなかったはずで、ですから、ネイヴンはそのルビーを我がものとして、こっそりこの国へ持ち帰ったに相違ないと見ているんでございます」
 リスター・リースは言った。「その写真というのは、ネイヴンが殺された時、新聞にも出ていたやつじゃあないかね?」
「そうでございます、旦那さま。これでございます」
 隠密警官はコートの内のポケットから新聞の切り抜きを取り出した。
 リースはやや躊躇《ためら》ってから渋々それを手に取った。「見ちゃあいかんのだ。でも、まあちょっと見せてくれ、スカトル。もうこれ以上はこの話は止しにしてくれよ」
「かしこまりました、旦那さま」
 リースは新聞の切り抜きの写真に目をやった。「ネイヴンの本の写真はもっときれいなんだろうね。スカトル?」
「ええ、それはもう……実物大の写真でございます」
 リースは言った。「おそらく、ヒンズー教の僧侶たちは寺が荒らされたことに抗議したんだろうな、スカトル?」
「それはもう、大変なものでございました。その宝石はどうやら信仰の上で非常に大切なものだったようでございます。憶えていらっしゃいますでしょう。四、五カ月前になりますか、あの本が出ましたすぐ後で、ネイヴンの屋敷に押し入って宝石を奪おうとした者がおりました。ネイヴンは四五口径オートマチックでその相手を撃ちました」
「東インドの人間だったっけ?」
「そうでございます」隠密警官は言った。「まさに、その密林の寺に仕えている宗派のヒンズー僧でございました」
 リースは言った。「ああ、もう結構だ、スカトル。これ以上は聞きたくないよ。ネイヴンは当然そのことのあるのを予期して用心していたんだろう」
「用心どころの段ではございません。アーサー・ブレアというボディガードと、エド・スプリンガーという探偵を雇っておりました。二人とも、ネイヴンに付きっきりでございました」
「家にはその三人しかいなかったかのね?」レスター・リースは尋ねた。
「いえ、四人でございます。個人秘書で、ロバート・ラモントと申す者がおりました」
「ネイヴンの探検に付いていく男だね?」
 隠密警官はうなずいた。
「他に使用人は?」リースは尋ねた。
「通いの家政婦が一人おりましただけでございます」
 リースは眉を寄せて言った。「スカトル。これ以上私の好奇心をくすぐることになるようだったら返事はしないでくれよ。しかし、四六時中用心棒二人と秘書が一緒にいて、いったいどうして人一人殺されるなんてことがあるのかね?」
「さあ、そこが警察としても頭を抱えているところでございます。ネイヴン氏の寝室は事実上、強盗などまったく寄せつけない場所と考えられているんでございます。窓には鉄のシャッターが降りておりますし、ドアの錠は組み合わせ番号で開く式のものでございます。ドアの外では用心棒が交代で不寝番をいたしておりました」
「換気はどうなっているのかね」
「換気装置がございました。空気の流通は自在でございましたが、しかし、人間がそこを通って部屋に入ることは、どうやってみたところで無理でございました」
「そこまでだ、スカトル」リースは言った。「もう、それ以上聞くわけにはいかんよ」
「ですが、旦那さま」隠密警官はそそのかすように言った。「ここまでお聞きになったんでございますよ。すっかり最後までお知りなって、御生来の好奇心を満足おさせになったところで害はございませんでしょうに」
 レスター・リースは溜息を吐いた。「わかったよ、スカトル。で、どうなった?」
 隠密警官は調子に乗ってまくし立てた。「ネイヴンは寝室にまいりました。用心棒のブレアとスプリンガーが室内をあらためまして、鉄のシャッターは内側から錠がかかっているか、窓は閉じて錠がかかっているか、確かめたんでございます。それが、夜の十時ころのことでございました。十時四十分ころ、秘書のボブ・ラモントは重要な電報を受け取りました。彼はそれをネイヴン氏に届けようとしたんでございます。用心棒にドアを開けさせまして、もうネイヴンが寝ているかどうか、そっと声を掛けました。ネイヴンはベッドの上に起きて本を読んでおりました。
 秘書が部屋におったのは、十五分ないしは二十分ほどでございます。二人のやりとりにつきましては、用心棒は何も存じてはおりません。部屋の外の見張りが彼らの役目でございましたし、ラモントは極くありふれた仕事上の用向きだと申しておりましたから。やがてラモントが出てまいりまして、用心棒はドアを閉じたんでございます。真夜中ごろ、アーサー・ブレアが退《さ》がりまして、代ってエド・スプリンガーが朝の四時まで張り番をいたしました。四時にブレアがスプリンガーと交代いたしました。で、朝の九時に、秘書が午前の郵便を持ってまいりました。
 朝、秘書が郵便を届けるのは習慣でございました。朝一番に秘書が部屋に郵便物を運びまして、ネイヴンが入浴して髭を剃る傍らで、中身を伝えたり、あるいは指示を仰ぐということになっていたんでございます。
 用心棒がドアを開けて、ラモントは中に入りました。
 用心棒はラモントがネイヴン氏に『おはようございます』 と挨拶する声を聞いております。ラモントは部屋を横切って窓のシャッターを開けにまいりました。と、突然ラモントの叫び声が聞こえたんだそうでございます。
 ジョージ・ネイヴンは咽喉を掻き切られて死んでおりました。部屋中がひっくり返されておりました。家具などもめちゃくちゃにされていたんでございます」
 レスター・リースは今や無関心を装おうとさえしなかった。
「犯行時刻はいつごろかね、スカトル?」彼は尋ねた。「検死官にはわかったはずだろう」
「はい、旦那さま」隠密警官は言った。「ほぼ、午前四時でございます」
「殺しの下手人はどうやって部屋に入ったんだ?」
「そこなんでございますよ、旦那さま」執事は言った。「警察もお手上げでございます。窓は全部閉まっておりましたし、シャッターも全部、内側から錠が降りているんでございます」
「殺しがあったのは、ちょうど用心棒が交代した頃だったわけだな、え?」レスター・リースは言った。
「その通りでございます、はい」執事は言った。
「ということは、用心棒のどちらか一人がまず怪しいと見られるわけだな、スカトル?」
 執事は言った。「それが、実は二人とも容疑者になっているんでございます。ところが、二人とも、とてもそんな大それたことをするはずのない、ちゃんとした人間なんでございます」
「で」レスター・リースは言った。「下手人は、例のルビーを手に入れたのか、スカトル?」
「それが、旦那さま、ルビーはそもそもその寝室にはなかったんでございますよ。ルビーは屋敷の中の、秘密の場所に特別誂えでこしらえた金庫に入れてあったんでございます。金庫のことは誰ひとり知る者はございませんでした。ジョージ・ネイヴンと二人の用心棒、それにもちろん、その秘書を別にすればでございます。当然、主人が殺されたことを知って、秘書と用心棒二人は、すぐに金庫を開けてみました。ルビーは影も形もなくなっておりました。警察が調べましても、金庫からは指紋一つ採れませんでした。ところが、ちょっと妙なことがあったんでございます。
 警察は、下手人は寝室の東側の窓から侵入したと睨んでおります。窓の下の柔い土に足跡がございましたし、おまけに、その柔い土に、竹の梯子の端で付いた丸い跡が見付かったんでございます」
「竹のかい、え、スカトル?」
「はい、旦那さま。ですから、当然、犯人はインド人という線が浮かんで来るわけでございます」
「しかし」レスター・リースは言った。「内側から錠の降りている鉄のシャッターを開けて、中に入って、人を殺してまたその窓から出て、窓を閉めて、シャッターを降ろして内側から錠をかけるなんていう芸当が、いったいどうやってできるんだ?」
「そこが問題なんでございますよ、旦那さま」
「しかも」レスター・リースは言った。「用心棒は二人ともかかわりがないっていうんだろう。その連中がグルだとすれば、ドアを開けて犯人を入れてやったということも考えられるがね。しかし」レスター・リースはさらに言った。「殺しの犯人がどうやって宝石を持っていったか、その点については何の証拠もない」
「まったく、おっしゃる通りでございます」
「警察は何をやってるんだ?」
「関係者を残らず呼んで事情聴取をいたしております。残らず、というのはつまり、家政婦と二人の用心棒でございます。ラモントは、前の晩ネイヴンと会いました後、その足でネイヴンの弁護士でデュアリングという男のところへ、内密の話し合いをしにまいっております。デュアリングのところには若い女の速記者でエディス・スキナーというのがおります。ですから、ラモントがその間何をしていたかにつきましては、そっくり本人の言う通り信用できるんでございます」
「その内密の話し合いというのは、一晩中かかったと考えていいんだね」
「はい、旦那さま。大層重要な話し合いだったそうでございまして。何でも、所得税と著作権についての法律上の問題だったとかでございます」
「しかし、夜通しとはまた妙な時間だね」レスター・リースは言った。
「はい、旦那さま」執事は言った。「でも、しかたがなかったんでございます。ラモント氏はネイヴン氏の仕事で大変忙しいものでございますから。ネイヴン氏は一風変った人柄で、秘書にはずい分いろいろと押し付けていたらしゅうございます。弁護士が記録を調べてそれをするのに、八時間ではとても済まないと申しますと、ネイヴン氏はえらくむずかりましたそうで、それでとうとうラモントは徹夜することにしたんだそうでございます」
「で、ラモントと弁護士の談合が終ったのは?」リースは尋ねた。
「朝の八時ころでございます。二人で朝食を一緒にいたしましてから、ラモントはネイヴン氏に朝の郵便物を届けるために車で屋敷の方へまいったんでございます」
「当然、警察はブレアとスプリンガーを厳しく追求しているだろうな、え、スカトル?」
「はい、旦那さま。と申しますのも、どちらかの見張りに気付かれずに誰かが寝室に入ることはまずできなかったはずだからでございます。それともう一つ、殺人のありました時刻が、ちょうど見張りの交代時間に当たっておりますので、ブレアが犯罪に加担していて、その罪をスプリンガーになすりつけようとしたか、あるいはスプリンガーが犯人で、交代した後すぐに犯行におよんでブレアに嫌疑がかかるように仕向けた、と考えられるからでございます」
「なかなか面白い事件と言うべきだな」レスター・リースは言った。「アクリー部長刑事もさぞかし忙しいこったろう」
「そうでございますとも、旦那さま」執事は言った。「それに、これはヒンズー教徒の手並みのほどを示す事件でもございます」
「まったくだ」レスター・リースは夢見るように言った。「まさに、水際立った殺人だよ。ただし、一つだけ難がある」
 執事はキラリと目を光らせて乗り出した。「一つだけ難がある、とおっしゃいますと?」
「いやいや、スカトル」リースは言った。「それを話したりしては、私は自分自身と交わした約束を破ることになるからね。私は以後一切、事件の論理的な絵解きを考えないことに決めたんだ」
「そうおっしゃらずに是非」執事はさとすような口ぶりで言った。「その一つだけの難点というのをお聞かせくださいまし」
 レスター・リースは深い吐息を洩らした。「駄目だよ、スカトル」彼は言った。「誘惑には乗らんよ」
 レスター・リースは長椅子に寝そべってクッションの上で脚を組み、立ち昇る煙草の烟をじっと見つめた。
「あのなあ、スカトル」彼はまるで恍惚とした様子で言った。「一つ実験をしてみたいんだ」
「実験でございますか?」
「ああ」レスター・リースは言った。「心理学的な実験だよ。ところが、それをするには少々小道具がいる。まず、五十ドル札三枚と、一ドル札五十枚だ、スカトル。それから、ダイアモンドのネクタイピン、ネイヴンの屋敷から盗まれたルビーの模造品《イミテーション》、それに、ちょっといかすコーラス・ガールが一人」

……「インドの秘宝」巻頭


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