「曲がった蝶番」

ディクスン・カー/ 妹尾韶夫訳

ドットブック版 323KB/テキストファイル 171KB

600円

色あせたケント州の大地を眺めながら、ペイジは思った。変事が続きすぎる。去年は近所で強盗殺人事件があり、いまは宿屋に探偵が泊まっているという。しかも、村の旧家ファーンリ家の当主に、偽者ではないかという疑惑が起こった。25年前のタイタニック号沈没時に入れ替わったと主張する男が出現したのだ! どちらが本物か、その判定もつかぬうちに殺人が…スコットランドヤード顧問のフェル博士が登場する。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。他の代表作に「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「三つの棺」など。

立ち読みフロア
 七月二十九日 水曜日――ある男の死

 諸君が心得ておかねばならぬ一番大切なことは、自分がしようとすることを、決して観客に前もって説明してはならぬということである。そんなことをすれば、警戒の目を見はる観客は、ただちに諸君が隠そうとしている最も大切なことの大体の見当をつけ、種を見破られる機会は十倍も増すのである。ここにその例を示そう。
 ――ホフマン教授「近代魔術」



 ケントの庭の見える窓際、ひらいたままの書物の何冊も散乱するテーブルの前に坐って、ブライアン・ペイジは仕事をするのが嫌になっていた。二つの窓からさしこむ七月末の太陽は、部屋の床を金色に光らせ、古い木材と古い書物の匂いが、睡(ね)むくなるような気温のなかに漂っていた。庭のむこうの林檎畑から、一匹の蜂がとんでくると、ペイジはそれを軽く追いやった。
 庭の塀の外には道があって、その道は、「ブル・エンド・ブッチャー」という宿屋や、ファーンリ家の門の前を通り、林檎畑の中をうねって、森の斜面へのぼっている。ファーンリ家の何本かの煙突は、木立のすきまからよく見えた。
 色あせた茶と緑に包まれたケントの平地は、滅多に派手な色彩にいろどられることがないのだけれど、今日はいつになく輝いて見え、ファーンリ家の煉瓦の煙突でさえ、美しい色をしているように、ペイジには思われた。そしてそのファーンリ家のあたりから、ゆるやかに走るナザニエル・バロウズ氏の自動車の音が、遥かに響いてくるのだった。
 ものうげにペイジは考えた。このマリンフォードという村には、変わった出来事が起こりすぎる。例をあげるなら、去年の夏は肥っちょのデイリ嬢を絞殺した旅の浮浪者が、線路を横切って逃げかけて無慙に殺された。またつい二三日前には、二人の旅人が順番に二晩つづけて、「ブル・エンド・ブッチャー」に泊ったが、そのひとりは画家、ひとりは誰言うとなく探偵だったという噂が立っている。
 またペイジの友人で、メイドストンから来た弁護士ナザニエル・バロウズが、ちかごろ妙に忙しげに右往左往する様子も変である。誰も内情は知らないが、ファーンリ家でなにか変わったことがあったらしい。昼食前に仕事を切りあげて、「ブル・エンド・ブッチャー」へ出かけて、一杯のビールを飲むのが、ペイジのいつもの習慣だったが、この日そこで誰も世間話をしていなかったのが、かえって縁起のわるいことのように思われた。
 あくびしながら、ペイジは二三の書物を押しやった。考えるともなく、ファーンリ家に何事が起こったのだろうと考えた。ファーンリ家は、ジェームズ一世の頃、イニゴー・ジョーンズという男が始めて以来、長く続いた家柄で、現在のマリンフォードとソーンの准男爵ジョン・ファーンリ卿は、莫大な資産と土地を相続している。
 ペイジは髪の黒っぽいやや神経過敏のジョン・ファーンリも好きなら、気立の率直なその夫人モリーも好きであった。ジョンには村の生活が性分に合っているらしく、長い間よそに出ていた人にしては珍しいほど、生まれつきの大地主らしい風格があった。村を出ていた頃の彼の生活は、ペイジの興味をそそるほどロマンティックなもので、現在の着実で平凡な准男爵の生活とは、およそ似てもつかないものであった。彼の初めての航海から、一年たらず前にモリーと結婚するまでの間の物語は、マリンフォード村人の耳目をそばだてるに充分だったのである。
 ペイジはにやりと笑うと、もひとつあくびをして、それから仕事をはじめるためにペンをとった。
 そうだ!
 肘の片がわにあるパンフレットを思いだした。通俗的であると共に学究的に書こうとしている彼の「英国裁判長列伝」は、予定通り進行しつつある。いまマシュー・ヘール卿のことを書いている最中だが、書きたいことは次から次と出てくるし、彼はそれを全部書いてゆきたいと思っているのだ。
 実のところ、彼は法律研究にさいげんがないと同じように、「裁判長列伝」がいつ果てるとも見当がつかないのであった。純粋の学究の徒としては不精であっても、あとから出てくる材料を切りすてるには、あまりに気が多く、気が走りすぎていた。だから、したがって完成の時期なぞは問題にしないという結果となる。そして、自分は仕事を続けなければならないのだと、始終自分の心に言いきかせながらも、いつも主題から離れて、興味のむくままに、脇道へ外れていたのである。
 彼のそばにあるパンフレットは――
「財務裁判所長マシュー・ヘール卿臨席のもとに、一六六四年三月十日、ベリ・セントエドマンズ町で行われたサッフォーク州の巡回裁判における、巫女の公判記録、一七一八年出版」
 主題から脱線したことはこれまでにもあった。マシュー・ヘール卿が巫女事件に関係したことなどは、取るに足らぬ問題なのだが、興味が湧くとそれを取り上げずにいられなかった。満足の溜息をもらしながら、彼は本棚から手垢のついたグランヴィルを取りおろした。そしてそれをひろげて瞑想に耽っていたら、庭に足音がして、窓から呼ぶ声が聞こえたのである。
 それは弁護士らしくもない風采で、ぶらぶら手に持つ鞄を振り動かしているバロウズであった。
「忙しい?」
「うん。まあ入って煙草でもすいたまえ」ペイジはあくびをして本をとじた。
 庭に面したガラス戸を開けて、バロウズは薄暗い気持よい部屋にはいった。彼は落ち着こうとはつとめているらしいが、暑い日にも拘らず、少々顔が蒼くて、慌てているようにみえた。このバロウズの父や、祖父や、そのまたまえの祖先は、代々ファーンリ家の法律顧問をやってきたのではあるが、熱情家で激し易い彼が、果たして家庭の法律顧問として適当な人であるかどうかは、すこぶる疑問なのであった。年齢が若いということも、彼に不利な条件の一つであった。だが、恐らく彼としても、そんな不利な条件を承知しておればこそ、それに打勝とうとして、しいて陸にあがったひらめみたいな蒼い顔になっているのであろうとペイジは考えた。
 バロウズは黒い髪を綺麗に分けて、ていねいに櫛を当て、長い鼻の上にかけたべっこう縁の眼鏡のおくの目を光らせて、いつもより顔の表情がこわばっているように思われた。窮屈そうに折目正しい黒服を着て、手袋をはめた両手を、きちんと鞄のうえで握りあわせていた。
「ペイジ君、今夜君は家で食事するつもりか?」
「うん、まあ――」
「よしたまえ」きっぱりとバロウズがいった。ペイジは瞬きした。
「ファーンリ家へ行って食事したまえ。ほんとは食事なんかどうでもいいのだけれど、ただあることが起こった場合、あすこに君にいてもらいたいのだ」職業的な態度でやせた胸をはり、「ぼくはここで自分の考えをのべてもいい。弁護士だからね。しかしそれよりさきにききたいことがある。君はファーンリ卿が想像していたより違った人のようには思わないかね?」
「想像していたより?」
「いまファーンリ卿と名乗っている男は、贋者だとは思わないか?」
「陽気のせいで君は気が変になっているんじゃないかね?」と、ペイジは体を起こした。意外な言葉に驚きもしたが、腹立たしくもあった。暑い日のいちばんだらけた時に相手に言うべき言葉ではない。「そんなことを考えたことは一度もなかったよ。どうしてそんなことを言いだしたのだ?」
 バロウズは椅子から立ちあがって、持っていた鞄を椅子の上においた。
「どうしてったって、おれが本当のジョン・ファーンリ卿だと名乗る男が出てきたからだよ。これは新しい出来事じゃない。もう何か月も前から始まっているんだ。その事件がいま頂点に達したわけなんだ。ええと――」あたりを見まわし、「誰か聞いている? なんという女だったかね、ここの女――あれか他の者がいる?」
「いや」
 バロウズは聞こえるか聞こえないかの声で続ける。「こんなことは、喋らないほうがいいのかもしれないが、君だけは信用できると思うんだ。それに、これは内証だが、ぼくはいま非常に厄介な問題に頭を突っ込んでいる。きっと大変なことになるよ。これに比べると、ティチボン事件なぞは問題じゃなかった。むろん、いまのところ、今までぼくがジョン・ファーンリ卿としてつかえていた人が、贋者だという証拠はどこにもない。ぼくはあの人が本当のジョン・ファーンリ卿かと思いこんでいた。ところがそれが問題になってきたのだ。二人の人間が現われたのだから、一方が真の准男爵とすれば、一方は芝居をしている贋者ということになる。二人はちっとも似ていない。全然顔がちがう。それでいてぼくは、どっちが本物か判断できない」ちょっと言葉を切って、「でも、さいわい今夜決りがつくことになった」

……巻頭より

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