ハーディ短編集

「魔女の呪い」

トマス・ハーディ/高畠文夫訳

ドットブック 324KB/テキストファイル 221KB

600円

村の農場主が二度目の妻を迎えたが、花嫁の腕にみにくいあざができ、みるみる悪化していった。手を尽くしたが効なく、思いあまって村に棲む魔法使いの老人のもとを訪れると、死刑直後の犯人の首に患部をあてると治るという。折よく機会を得て彼女は刑場へと出かけていった。だが、そこに待ち受けていたものは……。この「魔女の呪い」のほか、南イングランドに伝わる迷信、呪術、生き霊などを織り混ぜながら、ハーディ的テーマといわれる運命に弄ばれる男女の悲劇を描く。他に「三石塔殺人事件」「三人の見知らぬ男」など4篇を収録。

トマス・ハーディ(1840〜1928)イングランド南西部ドーセット州の生まれ。19世紀後半には小説家として多くの長短編を著したが「日陰者ジュード」を最後に小説から手をひき、20世紀はもっぱら詩人として活躍した。生前は賛否両論であったが、死後は小説も詩も最高の評価を与えられ、いまも世界中で読まれ続けている。その小説はすべて生まれ故郷をふくむウェセックスの田舎を舞台にしている。「帰郷」のほか代表作に「はるか群衆を離れて」「ダーバビル家のテス」「カスターブリッジの町長」「日陰者ジュード」がある。

立ち読みフロア
 そこは乳牛八十頭ほどの搾乳(さくにゅう)場で、大勢の乳しぼりたちが、常雇いも臨時雇いもいっしょになって、みんな総出で働いていた。というのは、季節はまだ四月のはじめだったが、灌漑(かんがい)牧場は一面の牧草で、乳牛たちの乳房も「いっぱいに張りきって」いたからである。それでも夕方の六時ごろになると、大きな、赤い、長方形の乳牛たちも、さすがにもう四分の三は搾乳が終わって、少しはむだ話をするひまもできた。
「なんでもね、あすはいよいよ花嫁さんを家に連れてきなさるんだってさ。今日は、はるばるアングルベリィまで来ていらっしゃるのよ」
 その声は、チェリィという牝牛の腹から聞こえてくるみたいだが、声の主は、もちろん牛乳をしぼっている女で、じっと動かないでいるその牝牛の横腹に顔を埋めている。
「だれか花嫁さんを見たの」と相手が口をはさむ。
 いや、だれも見やしないのさ、とはじめに口を切ったほうが答えた。そして、「でもね、人のうわさじゃ、なんでもバラ色のほっぺたの、ぽちゃぽちゃした、小柄でとってもかわいい女(ひと)なんだって」とつけくわえた。そう言いながらその乳しぼり女は振り向いて、牝牛のしっぽごしに、内庭の向こうのはしへちらと目をやった。そこには、三十ぐらいの、器量の衰えかけた、やせぎすの女がひとり、ほかの人たちとは少し離れて牛乳をしぼっていた。
「あのだんなよりだいぶ若いんだってねえ」と、相手の女も、同じ方角へ思案するようなまなざしを投げながら、ことばを続ける。
「それじゃ、あんた、だんなの年齢(とし)をいくつと踏むの?」
「三十かそこいらでしょう」
「いいや、四十近いんじゃよ」と、近くにいたじいさんの乳しぼりが口をはさんだ。長い白のエプロン、またの名は「上っぱり」を着て、帽子のへりを下に折り曲げてひもでくくっているので、ちょっと女のように見えた。「あの大堰(おおぜき)ができてな、おらが水の掻(か)い出しに出向いていっても、まだ大人(おとな)なみの賃銀(かね)がもらえなんだ、それよりもっと前の生まれじゃからな」
 うわさ話にすっかり花が咲いて、牛乳のほとばしる音がとだえがちになったので、しまいに、また別の牝牛のわき腹のあたりから権柄(けんぺい)ずくな声があがった。「いい加減にしろ、農場主のロッジだんながいくつだろうと、だんなの新しい奥さんがどうだろうと、それがいったい全体、おれたちに何のかかわりがあるんじゃ。だんなや奥さんの年齢(とし)がどうだろうと、おれはな、この牛に一頭当たり年に九ポンドの金を払わにゃならんのじゃ。精を出して乳をしぼらんと、仕事がすまん先に暗うなってしまうぞ。もうだいぶ日が暮れてきとるじゃろ」どなったのは、これら男女の乳しぼりの雇い主の酪農場主自身である。
 さすがに、もうおおっぴらに農場主ロッジの結婚のうわさをするものはなくなったが、いちばんはじめに話の口を切った女は、牛の下からひそひそ声で隣の女に言った。「あの女(ひと)には無情な仕打ちだわね」そして、言いながらさっきのやせぎすの女のほうを目顔で示した。
「いや、そんなことはないよ」と相手が打ち消した。「だんなは、もう何年もローダ・ブルックには口もきいていなさらないんだからね」
 乳しぼりが終わると、みんなはめいめい手桶(ておけ)を洗い、それを、樫(かし)の大きな枝の皮をはいで地面にまっすぐに立てて作った、まるで大きな鹿の枝角(えだづの)のような、たくさんの枝のついた掛け台にかけた。それから大勢の乳しぼりたちは、家路をさして思い思いの方向に散っていった。ひと言もしゃべらなかった例のやせた女は、十二歳ぐらいのひとりの男の子と落ち合うと、そのふたりもまた草原を上って帰っていった。
 彼らが足を向けているのは、ほかの人たちとはちがって、灌漑牧場のずっと上手(かみて)の、エグドン荒野(ヒース)のはずれからあまり遠くない寂しい場所の方角で、彼らが家に近づくにつれて、エグドン荒野(ヒース)の黒々としたたたずまいが遠くに見えてきた。
「さっき乳しぼり場でみんなのうわさをきいたのだけどね、あんたのお父さんが、あすアングルベリィから若いお嫁さんを連れて帰ってくるらしいんだよ」と、女が言った。「あんたに、あす市場までちょっと買物に行ってもらうつもりだから、あんた、きっと会うわよ」
「そうだね、母さん」と男の子が言った。「それじゃ、お父さんはお嫁さんをもらったの?」
「そうなんだよ……で、もし出会ったらね、よく見ておいてさ、どんな人だかあたしに話しておくれ」
「ああ、いいよ」
「髪の毛は黒いか、それとも金髪か、背丈は高いかどうか――あたしほどもあるかどうか。そいから、働いて暮らしをたてたおぼえのあるらしい人か、それとも、ずっと暮らし向きがよくて働いたことなんかない、どことなく貴婦人(レディ)らしい人かどうかをね。あたしは、きっとそんな人じゃないかと思うんだけどさ」
「うん」
 母子は、たそがれの中をとぼとぼと丘を登って小さな田舎家へ入った。それは泥壁造りで、長いあいだ雨に洗われてきたため、その表面は一面の溝(みぞ)や凹みとなっていて、もとの平らな面のおもかげも残っていなかった。一方、上の草ぶき屋根のところどころには、皮膚を破って突き出た骨のように、垂木(たるき)が見えていた。
 女は、炉すみの、ヒースを内がわに入れて寄せ集めた二かたまりの泥炭の前にうずくまり、真っ赤に焼けた灰に息を吹きかけた。やがて泥炭に火がついた。その火の輝きが彼女の青白い頬(ほお)を明るく照らし、かつては美しかったその黒い目に、またむかしの美しさをよみがえらせた。「いいかね」と彼女はまたことばを続けた。「髪の毛は黒いか、それとも金髪か見てさ、できたらでいいけど、その人の手が白いかどうかもよく見てきておくれ。もし白くなかったらね、台所仕事をしたことのある人らしい手か、それとも、あたしみたいに乳しぼりをやった人らしい手か、ね」
 男の子は、今度もわかったよと言ったが、その返事はうわの空だった。母親のほうは気がつかなかったが、彼は小刀で椈(ぶな)のもたれのついた椅子(いす)に刻みめをつけていたのだった。

……「魔女の呪い」
冒頭より

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