「デイン家の呪い」

ダシール・ハメット/村上啓夫訳

ドットブック版 178KB/テキストファイル 193KB

500円

謎の科学者エドガー・レゲットの不可思議な自殺と、妻アリスの謎の死、その自邸から盗まれた実験用のダイアモンド7個。矢継ぎばやに起きた怪事件の裏には、デイン家の恐るべき呪いが……ハードボイルドの生みの親ハメットの初期の代表作。

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「血の収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。他の代表作「影なき男」「コンチネンタル・オプ」「死刑は一回でたくさん」など。

立ち読みフロア

 青煉瓦《あおれんが》の歩道から六フィートばかりはなれた芝生の中にきらきら光っているのは、まさしくダイヤモンドだった。それはせいぜい四分の一カラットぐらいしかない、台にはめてない小粒の石だった。私はそれをポケットに入れると、四つんばいになって、いそがずに、できるだけ丹念に芝生をさがしはじめた。二平方ヤードばかり芝生をさがし終えたとき、レゲット家の玄関のドアが開いて、一人の女が戸口の広い石段の上に姿をあらわした。そして愛想のいい好奇心を示しながら私を見おろした。見たところ、私とほぼ同年配の、四十歳ぐらいの女で、黒みをおびた金髪に、快活な丸顔をしており、ピンクの頬にえくぼが見えた。白地に藤色の花模様をあらわした部屋着をきていた。私は芝生のせんさくをやめて彼女の方へ近よった。
「レゲットさんはご在宅ですか?」
「はい」その声は顔と同じようにおちついていた。「お会いになりたいのですか?」
 そうです、と答えると彼女は私と芝生を見おろしながらほほえんだ。「あなたさまも探偵でいらっしゃるのですね?」
 私はうなずいた。
 彼女は二階のグリーンとオレンジとチョコレート色の部屋に私を案内して、錦織布の椅子に坐らせると、研究室にいる夫を呼びに部屋を出て行った。待っている間に私は室内を見廻した。そして足の下に敷いてある渋いオレンジ色の絨毯《じゅうたん》はたしかに正真正銘の東洋産で、かなり古い年代のものであることや、くるみ材でつくった家具はすべて機械製のものではないことや、それから壁にかかっている数枚の日本画は決して淑女ぶった女によって選ばれたものでないこと、などをたしかめた。
 エドガー・レゲットは、「お待たせしました。どうしても手が離せなかったものですから。何かわかりましたか?」と言いながら入ってきた。その態度はいかにも親しげだったが、声は意外にも、相手の感情をいらだたせるような、耳ざわりな響きをもっていた。年のころ四十五、六の、あさ黒い皮膚をした、やせ型の中背の男で、もしその前額と、鼻孔から口角へかけて、鋭い深い皺《しわ》がきざまれていなければ、好男子といえるかもしれない顔立ちだった。広い額の上には長めの黒い髪がちぢれて渦まいており、角縁の眼鏡のうしろには赤茶色の眼が病的に光っていた。が、鼻は長い、ほっそりとした高鼻で、唇も薄くて鋭い感じを見せ、小さいな骨ばった顎《あご》の上にきりっとしまっていた。その黒白の服は恰好がよく、手入れがよく行きとどいていた。
「いや、まだです」と、私は答えた。「わたしは警察の探偵ではないので――保険会社からたのまれた――コンティネンタル探偵社の者ですが――なにぶんまだ手を着けたばかりなので……」
「保険会社?」と、レゲット氏はびっくりしたように、眼鏡の黒い縁《ふち》ごしに黒ずんだ眉を上げた。
「ええ、ではあなたはまだ……?」
「いや、もちろん、」と、彼は片手をちょっと振って私の言葉をさえぎった。それは指のさきだけが異常に発達した、長い、細い手だった。「もちろん、保険はかけてあったでしょう。でも、そんなことは考えてもいなかったものですから。ご承知でしょうが、あれはわたしのダイヤではないのです。ホルステッドのものなのですよ」
「ホルステッド=ボーシャンですか? わたしは保険会社から何もくわしいことはきいていないのですが。すると、あのダイヤを気に入ればお買いになるつもりだったのですね?」「いや、わたしは実験的にあれを使っていたのですよ。ホルステッドはわたしがガラスの仕事をしているのを――既成ガラスに彩色したり着色したりする仕事をしているのを知って、この方法がダイヤモンドにも適用される可能性に関心をいだいたのですね。そのうちでも、特に黄味や茶色味を抜き、青みを強めるという、いわゆる色の悪い宝石の改良法に興味をいだいたのですよ。彼はわたしにそれをやってみてくれと言って、五週間前に実験用としてあのダイヤモンドをよこしたのです。全部で八つでしたが、特別高価なものは一つもなかったですね。いちばん大きいのでも半カラットをちょっと出るくらい、中には四分の一カラットくらいしかないものもありました。色も二つをのぞけばみんな貧弱でした。それが泥棒にやられた問題の石ですよ」
「では、あなたはまだ成功なさらなかったわけですね?」
「ざっくばらんにいうと、」と彼は言った。「まだ何の進歩も見られませんでした。これはかなりデリケートな問題で、それに相当厄介な材料ですからね」
「いつもどこにおしまいになっておいででした?」
「ふだんは、何にも入れずにそこらにころがしておきましたよ――といっても、むろん研究室内ですがね――しかしここ数日間は、錠のかかる用箪笥《ようだんす》の中にしまっておいたのです――不成功に終わった最後の実験以来はね――」
「実験のことを、誰か知っていたでしょうか?]
「誰だって、みんな知っていましたよ。別に秘密にするような理由もなかったですから」
「すると、ダイヤはその用箪笥から盗み出されたわけで?」

……冒頭より

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