「危険な夏」

ヘミングウェー/永井淳訳

ドットブック 174KB/テキストファイル 163KB

500円

「危険な夏」は二人の闘牛士の命をかけた宿命的な対決を描いたヘミングウェー最晩年の作品。迫真のスポーツライティングであるが、そこには「生のさなかの死」が濃厚に浮かびあがる。本書には、このほかに、「密告」「蝶々と戦車」「戦いの前夜」「尾根の下で」の、スペイン戦争に材をとった短編四つを収めてある。
立ち読みフロア
 わたしはルイス・ミゲルとアントニオを評価するさいに、絶対的に公正な判断を下すよう努めていたが、二人のあいだには内戦のような競争意識が芽生えはじめており、中立を守ることはしだいに困難になりつつあった。ルイス・ミゲルがいかに偉大で途方もなく多才なマタドールであり、しかも申し分のないコンディションにあるかを見るにつけ、わたしはやがて彼らが同じプログラムで闘いはじめるとき、アントニオがいかに恐るべき強敵を相手にすることになるかを理解したのだった。
 ルイス・ミゲルには維持しなければならない地位があった。彼は闘牛士のナンバーワンであることを自認していたし、おまけに金持だった。これらは闘牛場では重荷以外の何物でもないはずなのだが、彼は牛と闘うことを心から愛していたし、闘牛場では自分が金持であることを忘れることができた。しかし彼は自分のほうに勝ち目があると思いたかった。さらに彼は一回の出演に対してアントニオよりもたくさん金を払ってもらうことを望んでおり、対立の根の深さはそこにあった。アントニオは悪魔の誇りを持っていた。自分のほうがルイス・ミゲルよりも偉大な闘牛士であり、しかもずっと前からそうなのだと確信していた。ルイス・ミゲルのほうがアントニオより高い出演料をとっており、彼らがいっしょに闘うときにも出演料に差がつくようなことがあれば、アントニオは闘牛士としてどっちが上かということをすべての人に向かって、なかんずくルイス・ミゲルに向かって疑問の余地なく証明するまで、あの奇妙に熱っぽいぎらぎらした性質を放出してやまないだろうことをわたしは知っていた。アントニオはそれをするかさもなければ死ぬかだが、本人はもとより死ぬ気など毛頭なかった。

 競争の幕あきはサラゴーサだった。牛はガメーロ・シビーコ産だった。闘牛好きで旅費をひねりだせるほどの人間は残らずサラゴーサに集まっていた。マドリードの評論家たちもみな顔を見せており、昼食時のグランド・ホテルは闘牛飼育者、プロモーター、貴族、有力者、元馬商人、それに小人数のアントニオの取巻きなどでごったがえしていた。ルイス・ミゲルの取巻きは、政治家、官吏、軍人など大勢いた。
 ビルとわたしは彼の知っている市内の酒場で昼食をとり、それからアントニオの部屋へ行ってみた。彼は元気そうだったがどことなくぼんやりしていた。わたしにはすぐにわかるのだが、彼はまわりの人間たちが気になりだすと、首筋が凝っているかのように頭をぐるぐる回したり、ふだんよりいくらかアンダルシア訛りの目立つ話し方をしたりする癖がある。彼はよく眠れたと言った。闘牛が終わってからテルエルまで車で行っていっしょに食事をすることに決めた。アントニオはメルツェデスで行くほうがよく休めるだろうと思ったので、ビルとわたしは闘牛場からまっすぐテルエルへ向かうことにした。わたしはふとアランフェスでの闘牛の前におしゃべりをしすぎたことを思い出して、いやな気がしたが、アントニオはどうしてもそうしたいと言ってきかなかった。別れぎわに、彼は自然な笑いを浮かべて、何かおたがいのあいだに秘密でもあるかのように一度ウィンクした。彼は神経質にはなっていなかったが、少しばかり緊張していた。わたしはルイス・ミゲルの部屋にもちょっと立ち寄って、よい牛に当たるようにと声をかけた。彼も少しばかり緊張していた。
 その日は暑い日で、六月の太陽が激しく照りつけていた。ルイス・ミゲルの最初の牛は力強く決然として姿を現わし、ピカドールたちを激しく攻撃した。ルイス・ミゲルが最初のキーテで牛を引き受け、その前にアルヘシラスでパブロ・ロメロスといっしょに闘ったときとまったく同じ美しいフォームと、尊大さと、ケープによる支配を見せてくれた。それから牛がつぎにピカドールを攻撃すると、アントニオが交替してケープで牛を引きはなした。彼は牛をリングの中央に連れだして、ゆっくりと、すれすれのパスをくり返した。自分はしっかりと直立し、一回ごとのパスを彫刻のような型にはめこみ、こんなケープさばきがはたして可能だろうかと思われるほどに、パスの速度を落とし長びかせてみせた。観客も、そしてルイス・ミゲルも、二人のケープさばきにははっきりした腕の差があることを知った。
 ルイス・ミゲルは二対のバンデリーリャを巧みに打ちこみ、つづいて目のさめるような最後の一対を打ちこんだ。牛を招き寄せておいて、ぎりぎりの瞬間まで待ってから、片側に身をひるがえして一対のバンデリーリャを突き刺し、鮮かなピヴォットで角をかわした。彼はすばらしいバンデリリェーロだった。
 やがてムレータに移ると、彼はたちまちのうちに牛を支配下におき、きれいな長いパスで巧みに操った。しかしそこに魔術的なものは何もなかった。初めはそれほど無邪気な動物ではなかったこの牛から、アントニオのキーテが何かを奪ってしまっていたのだ。ルイス・ミゲルは二度剣を突き刺したが、不運にも決定的な打撃を与えることができなかった。三度目は前よりもましで、上のほうのむつかしい急所に剣が半ばまで突き刺さり、ルイス・ミゲルは牛の頭を、それが砂の上に拡がったムレータに鼻面を突っこんでいたところまで巧みに下げさせておいて、デスカベーロ剣〔牛の脊髄を切断する剣〕の切尖を突き刺し、ようやく牛を片づけた。観客は彼を支持し、彼は唇をきっと結び、かすかな微笑を浮かべながら場内を一周した。その表情にやがてわれわれはたびたびお目にかかることになる。
 アントニオの最初の牛はなかなかいい牛だった。アントニオは牛を迎えてパスを一回行なうたびにしだいに牛に近づいて行き、相手に自分を順応させながら、あのはらはらするようなリズムでケープを操った。
 彼はピカドールたちとの接触を通じて牛を完全なままに保ち、やがてバンデリーリャが打ちこまれると、一か月前にアランフェスで完璧な闘牛を中断した時点に立ち戻った。つまり怪我の影響は全然認められなかった。牛の角による負傷は、いかなる点でも彼の力を低下させていなかった。それは彼に教訓を与えただけであり、やがて彼は持てる純粋なスタイルを存分に発揮してファエナを開始し、牛を自分の協力者に仕立てあげ、愛情こめて牛を助けながら、これ以上近づいたら危険だというぎりぎりのところで牛の角をやりすごした。ついに牛が持てる力のすべてを吐きだしてしまうと、アントニオはただ一度角の上に身を躍らせただけで牛を仕止めた。わたしにはそれがほんのわずか低いように見えたが、観客も主催者も満足した。アントニオは片耳を切り取った。
 ビルとわたしはほっと一息ついた。全然空白を感じさせない見事なカムバックぶりだった。そこが肝心な点だった。苦痛もショックも、彼の内面にいかなる影響も及ぼしていなかった。目のまわりにいくぶん疲労のかげが浮いているように見えたが、それ以外はどこも変わりなかった。

……「危険な夏」より

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