「危険な未亡人」

E・S・ガードナー/高橋豊訳

ドットブック 383KB/テキストファイル 149KB

500円

メイスンのもとを訪れた老婦人は訴えた。ギャンブル好きの孫娘シルビアが、グリーブという男の経営する賭博船で多額の借金をこしらえてしまった。その際書いた借用書を彼女の夫が悪用しようとしているので、それに先んじて買い戻してくれというのだ。しかし船でグリーブが死体となって発見され、容疑はシルビアに、そして逃亡を助けたメイスンにも共犯容疑がかけられた! 絶体絶命に陥ったメイスン!

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かして、法廷場面とハードボイルド・タッチで有名なペリイ・メイスン・シリーズを書き、一躍人気作家となった。

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 ペリイ・メイスンは新しい依頼人が来るといつもそうするように、興味深げな目で、白髪の女を見つめた。その視線をはじき返した女の明るい灰色の目のぎらぎらした鋭い光は、しだいに柔らかなきらめきに変わっていった。
「いいえ、わたしは人殺しをしたことはありません――いままでのところはね」と、彼女はいった。「でも、わたしを炉ばたに坐って編み物をしているような、温厚なおばあさんだと思ったら、とんでもないまちがいですよ。そりゃもう、たいへんなごうつくばりなんだから」
 弁護士は笑った。「あなたがわたしに会わせたいというその賭博好きな若い女性も、たじたじでしょうね。あなたのような……」
「未亡人の前ではね」と、彼女はメイスンがためらっているうちに無造作にいった。「そうおっしゃってもかまいませんよ――危険な未亡人だと。とにかくわたしは、法廷で吠える犬の事件について論陣を張っているあなたの姿を見て、一歩もあとにひかないその戦いぶりが、すっかり気にいったのよ。わたし自身も相当気が強い方なんでね」
 デラ・ストリートはメイスンの目をとらえて、その老女にいった。「お名前と年齢、ご住所を記録させていただきたいんですが」
「名前はマチルダ・ベンソン」と、未亡人はいった。「住所はウェッジウッド・ドライブ一〇九〇。年齢は知ったことじゃないわ」
「いつごろから葉巻を吸うようになったのですか」と、メイスンは興昧深げにきいた。
 彼女は視線を、さっとメイスンに戻した。「くだらない因習にとらわれなくなったときからよ」
「それはいつなんです」
「夫が亡くなって、自分の親戚があきれるほどふぬけた偽善者どもであることがわかったときからね――こんなことまで話さなきゃならないの?」
「あなたの素姓などを、できるだけ知りたいのです。その調子でやってください――つまり、あなたは因習にとらわれなくなったわけですね」
「ええ、そうよ。そして年ごとにわたしは、堕落しているの。夫の親戚はわたしを罪深い女だと思ってるわ――どう思われようと、わたし自身はちっとも気にしちゃいないんだけどね! そりゃ、死ぬのを怖がってる人はどっさりいるでしょうよ。でも、生きるのを怖がってる人たちにくらべれば、ものの数じゃないわ――ただ惰性で生きてる人たちがそれだけ多いのよ――それも因習的な惰性でね。親戚は、わたしがシルビアを堕落の道にひきずりこんでると思って……」
「シルビアというのは、だれですか」と、メイスンはさえぎってきいた。
「わたしの孫娘」
「結婚してるんですか」
「ええ、フランク・オクスマンとね。二人の間にはバージニアという、六つになる娘がいるわ」
「そうすると、あなたは曾祖母にあたるわけですね」
 彼女は満足げに大きな葉巻をふかした。「そうよ。わたしは、ひいおばあさんなの」
「亡くなられたご主人の親戚について、もう少し聞かせてください」と、弁護士は頼んだ。
「彼らとは仲たがいしているのですか」
「ベつにそういうわけじゃないわ。ただ、うんざりしてしまったのよ、あの人たちにも、あの人たちが我慢している事柄にも。つまり、わたしは反抗しただけなの」
「どんな反抗を?」
 彼女はいらだたしげに顔をしかめた。「なぜわたしの人生観がそんなに気になるの」
「興味があるからです。この件をお受けするかどうかを決める前に、あなたの精神的な背景を知っておきたいのです」
「わたしはね、失われた人生の一部を取り戻したいの。わたしは堅苦しいピューリタン的な基準にしたがって育てられたのよ。周囲の人は誰ひとりとして、のんびり暮らして人生を楽しもうとしなかった。若いころは社会生活に参加する準備に追われて、青春を楽しむことができず、その後は、老後のためにお金を貯えて、楽しい生活ができなかった。そして老後は、神とともに平和を求めようとして過ごした。わたしはそういう哲学にもとづいて育てられたの。やがて夫が亡くなり、わたしはひとりだけ取り残されたけれども、保険金がいくらか手に入ったので、それを投資して裕福に暮らす余裕ができた。そこでわたしは旅行をはじめ、まわりを見まわし、人生を大いに楽しむことにしようと決心したの。もう六十を過ぎているというのに、まだ本当の生きかたをしたことがないのよ。
 いまは酒を飲み、ばち当たりな言葉を口にし、葉巻をふかし、好き勝手なことをやってるわ。単調で退屈な生きかたには、もううんざりしちゃったの。好きなようにやれるだけのお金は持ってるんだから」
「で、今度は弁護士が必要になったのですか」と、メイスンはたずねた。
 彼女は急に真剣な顔になってうなずいた。
「なぜです? 何かめんどうなことが起こったのですか」
「いいえ、いまのところはまだ」
「しかし、そうなりそうなのですか」
 彼女は考え深げに唇を固く結び、葉巻の先端をじっと見つめ、慣れた仕草で灰を小指で落とした。「そうならなければいいとは思うけど」
「いったいわたしに何をしろというんですか」と、メイスンは問いただした。
「サム・グリーブという男をご存じ?」
「いいえ。誰なんです?」
「賭博師よ。ダンカンという男といっしょに〈豊饒の角〉を経営してるの。十二海里領海水域の外に停泊している賭博船よ」
「そのグリーブがどうかしたのですか」と、メイスンはたずねた。
「シルビアを困らせているの」
「というと?」
「彼はシルビアの借用証を握っているの」
「金額は?」
「およそ七千ドル」
「何の借金なんですか」
「賭博のよ」
「で、あなたはわたしに、金を払わずにその借用証を取り戻せと……」
「とんでもない」と、彼女はさえぎっていった。「借用証の金額は一セント残らず払ってもらいたいの。でも、法外な割増金をまきあげられるのは、まっぴらごめんだわ。借金は払うけど、ゆすりの金なんか払いたくない」
 メイスンは当惑してきき返した。「それはグリーブが借用証を額面どおりの値段では手渡さないという意味ですか。なぜそんな……」
「結論を急がないで、お若いの」と、彼女は叱りつけるような調子でいった。「これには、あなたの知らない事情がいろいろとあるのよ。あなたにも話せないようなことが、どっさりとね。でも、シルビアの夫のフランク・オクスマンが、借用証の額面以上の金を払おうとしていることを、グリーブは人づてに聞いてるわけなの」
「なぜです?」と、メイスンはきいた。
「証拠になるから」と、彼女はぶっきらぼうに答えた。
「何の証拠?」
「シルビアが病みつきの賭博気ちがいで、金銭面のことで信頼がおけないという証拠なの」
「フランクはなぜそんな証拠を手に入れようとしているのですか」
「そうしたいからでしょうよ」
「なぜです?」
「ま、いまのところは、そんなこみいった話はよしましょう。あなたにお願いしたいのは、その借用証を手に入れることだけなの。そのためのお金は、お渡しするわ。もし割増金を払わなければならないようなら、そうしていいけど、法外な割増金はいけませんよ。わたしはゆすりも、ゆすりをやるやつらも大嫌いなの」
「それならば、わたしに頼むまでもないでしょう」と、メイスンは反論した。「あなたは孫娘にその金をやって、賭博船へ行って借用証をもらってこいというだけでいいんです。借金を返すから借用証をよこせといったら、彼らもそうせざるをえないでしょう」
 マチルダ・ベンソンは首を振った。「孫娘をそんなふうに甘やかしたくないわ。こっぴどく脅かして、こらしめてやるつもりなの。借用証を手に入れたら、わたしにすぐちょうだい。どんな方法でそれを手に入れようと、ちっともかまわないから」
「すみませんが、どうも引き受ける気がしませんね」と、メイスンはいった。「そもそもこれは法律上の問題じゃありませんよ。私立探偵の方がうまく処理できるような仕事です。ドレイク私立探偵社のポール・ドレイクは、いつもわたしを手伝ってくれましてね。非常に有能で信頼のおける男ですから、お会いになって……」
「私立探偵なんかに頼みたくはないわよ」と、彼女はさえぎっていった。「わたしはあなたに頼みたいの」
「しかし、わたしを雇ったら、結局は、ドレイクを雇うことになりますよ。足を使う仕事は全部彼がやってるんです」
「あなたが何をしようと、誰を雇おうと、ちっともかまわないのよ。それはお任せするわ。ただし、簡単に事が運ぶなんて思っちゃいけないわよ。なにしろ相手は、鋼鉄の罠のように抜け目がなくて、徹底的に情け容赦のないペテン師なんだから」
「少し話が大げさすぎるんじゃないでしょうか」
「いいえ、あなたには何もわかっちゃいないのよ。とにかく、着手金を二千五百ドル払うわ。残りの二千五百ドルは、わたしの名前が表に出ないような方法で借用証を取り戻したときに払うことにするわ。それから、借用証を手に入れるための必要経費は、私立探偵に払うお金も含め、すべてお払いするわ。いかが、いい話でしょ?」

……冒頭より

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