「ダフニスとクロエ」

ロンゴス/呉茂一訳

ドットブック版 145KB/テキストファイル 84KB

400円

少年ダフニスは森のなかで山羊に育てられているのを、少女クロエはニンフの洞窟で羊に育てられているのを見つけられた捨て子だった。二人はそれぞれ山羊飼いと羊飼いの夫婦に拾われ、すくすくと育ち、やがて恋心を覚えるようになる。エーゲ海のレスボス島の伸びやかな牧野を舞台に繰りひろげられる神話的・牧歌的な物語。作者ロンゴスについてはほとんど何もわかっていないが、この物語は2世紀後半から3世紀にかけてのころ、当時の地中海世界の共通語だったギリシア語で書かれた。
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 レスボスの島にある都の、ミュティレネというのは、栄えて美しい町である。海水のさし込む掘割りでいくつにも分かたれ、それに磨きあげた白い石の橋々が整然とかかったところは、見るひとに都よりも、島にいる思いをさせもしようか。ところでこの町、つまりミュティレネから十里ばかり離れたところに、あるときめいた人の田荘があったが、いかにも結構な所領で、野獣の棲《す》む山々や麦の熟《う》れる畑、ぶどうのしげる丘並み、羊が群れる牧《まき》などをそなえ、そのそばには海が、柔かな砂につづくはるかな渚《なぎさ》へ、寄せてはまた砕けるのであった。
 さてこの荘園に住む山羊飼いの、名をラモーンという男が、山羊にはぐくまれている一人の赤子をみつけた。それは樫《かし》の木立やいばらの茂みに、蔦《つた》かずらが一面まといついたあたりで、柔かい芝草の生えそろった、その上に赤子は寝かされていた。そこへ牝山羊がしょっちゅう駆け込んではちょいちょい姿を隠し、仔山羊をおきざりにしてみどり児のわきについているのを、ラモーンはかまいつけられぬ仔山羊の姿を気の毒がって、母山羊が往来する道を見届けてからやがて日の中天に昇るころ足跡についてゆくと、牝山羊が用心深くひづめで赤子を踏みいためぬようぐるりをまわってあるくあいだに、幼な子はまるで母親の乳をでも吸うようにして山羊の乳汁を飲みこんでいるのであった。びっくりしたのも当然のこと、そばへいってみるとそれは男の子で、肥《ひ》立ちもよく、なりも可愛く、棄て児の受けるいつものならいよりはずっとりっぱなむつきにくるまれていた。着せてあった小羽織も美々しい紅《くれない》染め〔ムラサキイガイの液汁でそめる〕なうえ、金の留め金に象牙柄の小太刀さえも添えてあった。
 そこで最初は身印の品々だけもっていってみどり児はほうっておくつもりだったのを、思いなおして山羊の情愛にすら及びえないのではと恥じ入り、夜を待って証拠の品も幼な子もまた山羊までも、すっかり細君のミュルタレのところへと運んでいった。そこで妻がたまげて山羊が人の児を産むまいものかとあやしみただすと、ラモーンはこれまでの一部始終を、棄て児をみつけたこと、山羊が育《はぐく》んでいたこと、いずれ死ぬままにほうっておくに忍びなかったことなどを委細に物語った。細君もこれに賛成していっしょにあった身印の品々はしまいこみ、幼な児は自分たちの子だということにし、さて養育のほうは山羊にもっぱらまかせておいた。そして子供の名も牧人風にみえるようにと、ダフニスと呼ぶことにきめたのであった。

 それから程なく二年ほどたったある日、隣りあいの荘園からの羊飼いで名はドリュアスというのが、牧《まき》に出たおりこれもすっかり同様な光景《けしき》にゆきあい、同じような品々を見つけた。この地にはニンフたちの洞穴というのがあって、大きな巌《いわお》の中はうつろに、外側はぐるっとまるい形をしていた、中に置かれたニンフたちの御像も石で出来あがっており、足には靴をうがたず両手も肩までむき出しにし髪を首筋まで垂れ下げて、また腰のまわりに紐《ひも》をしめ眉にはほのかな笑いをうかべている、その一切のようすが舞楽のまどいの姿であった。洞穴の口は大きな巌のちょうどまん中にあって、泉から湧きあがる水が潺湲《せんかん》とした流れをつくり、そのうるおいに養われる一面のしなやかな芝生に、広々とした牧場《まきば》が洞の口からずっとつらなっていた。そこにはまた杯だの横笛だの牧笛《シュリンクス》だの草笛などが、昔の牧人たちの奉納物としておかれてあった。

 このニンフの洞穴へ仔《こ》を産みたての羊が、しきりに迷い込んではたびたびどこかへいなくなるように見えた。そこでそいつを懲《こ》らしめ元どおりすなおにいいつけを守らせようと、ドリュアスは緑の小枝を縄代りに、わなのように曲げて岩のところへとそこで羊をつかまえる考えで進んでいった。しかし着いてみると目にうつったのは思いもかけぬありさま、その牝羊がまるで人間みたいに乳房をさし出し、存分に乳を吸わせるわきには幼な子が泣きもせずせっせと両の乳房へ口をつけている。きよらかに輝かしいその口もとは、十分乳に呑みたりたのを羊が舌で拭き清めたのであろうか。そのみどり児は女の子で、そばにこれもむつきがおいてあり、身印として金糸をまじえた鉢巻、金を着せた靴、金の踝《くるぶし》飾りなどが添えてあった。
 これこそ神々のお示しで目にとまったものと考え、また羊からその幼な児へふびんと愛情とをかけるのを教え込まれて、その児を抱きあげるとかれは印の品々を頭陀袋《ずだぶくろ》に納めて、さてニンフたちにその申し児をつつがなく仕合せに育てあげられるようお祈りをした。そして羊らを連れもどすころ、自分の小屋に帰って、妻にその日のありさまをくわしく語り、見つけた品々を示して、その子を娘とも思い内証でうちの子として育ててやろうと説きすすめた。そこでナペ(という名前であった)はたちまち母親になり、子供を可愛がってやることはまるで牝羊におくれをとるまいと気負わんばかり、それからこちらもその子の身固めにと牧人風の名をつけてクロエ〔わかばの意〕と呼ぶことにした。

……巻の一 冒頭より


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