「闇よ落ちるなかれ」

L・スプレイグ・ディ・キャンプ/ 岡部宏之訳

ドットブック版 401KB/テキストファイル 202KB

600円

稲妻が閃めき、雷鳴が轟きわたった。その瞬間、パッドウェイはよろめき、舗道に倒れた。土砂降りの雨になった。彼は立ちあがり、パンテオンの柱廊に駈けこんだ。彼はわが目を疑った。あたりの様子が一変していたのだ。丸屋根の建物の赤煉瓦は大理石の化粧板で覆われ、道往く人々はコートとズボンの代りに、汚れた白木綿のチュニックを着ていた。そして、あるべきはずの議事堂と郵政省が消え失せている……若き考古学者マーチィン・パッドウェイは、稲妻に打たれた瞬間、20世紀のローマから西暦535年の古代ローマの終末期にタイム・スリップしてしまったのである! 生きるのが難しい時代だった。精神的不安に由来する各宗派間の陰惨な対立抗争、熾烈化の一途をたどる領土紛争……暗澹たる暗黒時代の到来を食いとめようと、パッドウェイは出版技術を開発し、合理的な加算法を人々に教え、ローマ侵攻を企てるゴート人、ヴァンダル人と闘った。彼は歴史のコースを変えるべく必死に生きたのだ、「闇よ落ちるなかれ」と願いつつ……異色SFの巨匠L・スプレイグ・ディ・キャンプの古典名作。

L・スプレイグ・ディ・キャンプ(1907〜2000)米国ニューヨーク生まれのSF・ファンタジー作家。『アスタウンディング・サイエンス・フィクション』誌でデビュー。SF作家としてはタイムトラベルものと歴史改変ものを得意とした。『闇よ落ちるなかれ』は代表作である。ファンタジー作品としては、雑誌『アンノウン』に連載された、フレッチャー・プラットとの合作「ハロルド・シェイ・シリーズ」が有名。

立ち読みフロア

 タンクレディはまたハンドルから両手を離して振った。
「――きみがうらやましいよ、パッドウェイ博士。このローマにも仕事はまだ残っているが、つまらん! 小さな隙間を埋めることばかりだ。大きな仕事はないし、新発見もないし。まあ、土建屋みたいなものだ。実につまらん!」
「タンクレディ教授」マーティン・パッドウェイは辛抱強くいった。「さっきもいった通り、ぼくは博士じゃありません。もうすぐ、博士にしてもらえるんじゃないかとは思っていますがね、今度のレバノンの発掘で論文を書けば」ドライブについては人一倍臆病なパッドウェイは、小型フィアット車の側壁に指が白くなるほどしがみつき、床板を踏み抜かんばかりに右足を突っ張っていた。その右足も、ずきずき痛み出していた。
 タンクレディは間一髪のところでハンドルをひっつかみ、威風堂々たるイソッタ車をかわした。黒塗りのイソッタ車はすこしも騒がず、しずしずと通っていった。「なに、かまやせんよ。ここでは博士(ドクター)であろうとなかろうと、みんなドクトールなんだから。いいかい、きみのような若くてスマートな人なら――何の話をしていたんだっけ?」
「いろいろと」歩行者がすんでのところでひき殺されそうになったので、パッドウェイは思わず目をつぶった。「エトルリアの銘文の話、それから、時間の性質について、それから、ローマの考古学の現状について――」
「あ、そうだ、時間の性質だ。わたしのはちょっと風変りなアイデアでな。ほら、蒸発した人たちの話をしていただろ。そういう連中はスーツケースを滑り落ちたんだよ」
「何を?」
「いや、トランクだった。時間という木の幹(トランク)だ。滑り落ちて止ったところが、過去のある時代というわけだ。しかし、かれらが何かすれば、そのとたんに、以後の歴史はすっかり変ってしまうんだ」
「パラドックスみたいですね」とパッドウェイ。
「いいや。幹(トランク)そのものは存在し続ける。だが、かれらが止ったところから、新しい枝が生えるのさ。そうにきまってる。さもなければ、われわれはみんな消滅してしまうはずだ。なぜなら、歴史が変ってしまって、われわれの両親が出会わないかもしれないからね」
「大変なお説ですね」とパッドウェイ。「太陽が新星(ノヴァ)になるかもしれないと知るのも、実に不幸なことですが、しかし、だれかが十二世紀に逆戻りして引っ掻きまわすと、やはり、われわれは消滅するかもしれないっていうのは――」
「いや。そんなことはいまだかつて起こったことはない。つまり、われわれが消滅したなんてことは一度だってない。そうだろ、ドクトール? われわれは存在し続けるが、別の歴史が始まっているんだよ。たぶん、そういうやつがたくさんあるんだと思う。どこかほかの場所にね。もしかしたら、それらはわれわれの世界とたいして違っていないかもしれない。時間の幹を滑り落ちたやつが、大洋のまん真ん中で止ることもありうるだろう。とすると、どうなる? 魚がそいつを喰っちまって、事物は従前通り進行するのさ。場合によっては、そいつは狂人扱いされて、口を封じられたり、殺されたりする。そうなれば、やっぱり大した変化は生じない。しかし、そいつが王様とか総統(ドゥーチェ)〔ムッソリーニの称号〕とかになったら? どうなる。
 ノロノロスルナ、新しい歴史が始まるんだ! 歴史ってものは四次元の網の目さ。それも丈夫な網なんだ。しかし弱点はある。連結点――焦点といってもいいんだが――は弱いんだ。逆戻りは、もし起こるとしたら、そういう点で起こるのさ」
「その焦点(フォーカル・ポイント)とはどんなものなんです?」パッドウェイが尋ねた。その言葉は、かれの耳には、でたらめの多音節語のように響いたのだった。
「ああ、ローマみたいな所をいうのさ。世界中のたくさんの有名事件のコースが交錯しているだろう。イスタンブールもそうだし、バビロンもそうだ。きみ、覚えているだろう、考古学者のスクルゼツスキーを? かれは一九三六年にバビロンで蒸発しちまったじゃないか」
「アラビア人の追いはぎに殺されたんだと思いましたが」
「とんでもない。死体はついに見つからなかったんだよ! ところで、まもなくローマはまた大事件の交差点になるかもしれないぞ。〔この物語は第二次大戦の直前に書かれた〕つまり、網の目がまたここで弱まるのさ」
「フォーラム〔古代ローマの広場〕が爆撃されたりしなければいいんですがねえ」
「おう、そんなことがあるもんか。われらが総統(ドゥーチェ)は本ものの戦争をおっ始めるほど馬鹿じゃない。だが、政治の話はやめとこう。いまいった通り、網は丈夫だ。たとえ、だれかが逆戻りしたって、それを捩じ曲げるには、よほどの事をやらなくちゃならん。ちょうど、部屋一杯のくもの巣に、はえがひっかかったようなものさ」
「そう考えれば気が楽になります」とパッドウェイ。
「まあね」タンクレディはパッドウェイの方を見てにやりとした。それからあわてでブレーキを踏み、窓から身を乗り出すと、イタリア人独得の罵詈雑言(ばりぞうごん)を歩行者に浴びせかけた。
 またパッドウェイに向って、「あした、家へ夕飯を食いにこないか?」
「え、え? は、はい。よろこんで。出航が迫って――」
「よし(シ)、よし(シ)。苦心の末、導き出した公式をお目にかけよう。たとえ時間に変化を与えても、エネルギーは保存されるっていうやつさ。だが、これは同僚たちには内緒ですぞ、いいね」黄色い顔をした小柄のタンクレディはハンドルから両手を離し、パッドウェイに向って人差指を振ってみせた。「罪のない道楽なんだ。しかし職業上の名声に傷がついては困る」
「ヒャー!」とパッドウェイ。
 タンクレディは滅茶苦茶にブレーキを踏み、車は横滑りをしながら止った。ちょうどマーレ通りとアラコエリ広場の交差点で、目の前にトラックが止まっていたのだ。「何の話だっけ?」と教授。
「罪のない道楽の話で」とパッドウェイは答えたが、あなたの運転も、その罪のない道楽の一つなのか、といってやりたい気持だった。だが、この人は大変親切にしてくれるから――
「あ、そうそう。なにかといえば、すぐに噂の種になる。考古学者ってやつは、とくに口のうるさい人種だからなあ。きみ結婚は?」
「えっ?」パッドウェイは、こうした話の仕方に、もうそろそろ慣れてもいい頃だったが、やはりだめだった。「ええ――まあ」
「よし。奥さんも連れてきたまえ」これはイタリア人の招待としては珍しいものだった。
「家内はシカゴにいるんです」妻と一年以上も別居していることは、パッドウェイとしてはいいたくなかった。
 今となってみれば、悪いのは明らかにベティの方ではなかった。彼女のような育ちと趣味の人間にとって、パッドウェイのような男など想像もつかなかったにちがいない。ダンスはへた、ブリッジはやらない、ときている。しかも、小人数のそうした同類と、資本主義の将来とか、食用ガエルの愛の営みについてとか、しかつめらしい話をしながら夕方を過ごすのが楽しみと考えている人種なのだから。最初のうちこそ、遠くを旅行できると思って胸をときめかせていた彼女も、一たびテント生活を味わい、夫がぶつくさいいながら土器の破片の銘文を調べているのを見ると、いっぺんに熱がさめてしまったのであった。
 それに、パッドウェイはあまり見栄えのする男ではなかった――体は小柄、鼻と耳は大き過ぎ、態度も一風変っている。学生時代にはハツカネズミのパッドウェイで通っていたくらいである。まあ、とにかく、探険調査を業としている男なんて、結婚相手としては馬鹿みたいなものだ。そういう男たち――人類学者、古生物学者など――の離婚率を調べてみるがいい。
「パンテオンのところで降ろしてくれますか?」パッドウェイは尋ねた。「まだあれを詳しく見たことがないし、ホテルまでほんの二、三ブロックですから」
「よし、ドクトール。でも、濡れそうだな。雨になりそうじゃないか?」
「かまいません。このコートでしのげますよ」
 タンクレディは肩をすくめた。車はヴィットリオ・エマヌエレ大通りを猛烈な勢いでくだり、タイヤをきしらせて角を曲がり、チェスタリ通りに入った。パッドウェイがパンテオン広場で降りると、タンクレディは両手を振り、「じゃ、あした八時にな? よし(シ)、きまった」と叫びながら走り出した。

……巻頭より

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