「時の娘」

ジョセフィン・テイ/村崎敏郎訳

ドットブック 433KB/テキストファイル 151KB

700円

負傷入院中の経験豊かなロンドン警視庁の警部が、見舞客が持参したリチャード3世の肖像画を見たことから、英国人なら誰でも知っている王の残虐性に疑問をいだく。彼は病床にありながら、若いアメリカ人を助手に使い、関係資料を吟味してその実像に迫る。そして明らかになったのは! 歴史の常識を覆す探偵小説として今もなお名作の名に恥じない傑作。

ジョセフィン・テイ(1896〜1952)スコットランド生まれ。エディンバラの王立アカデミーで芸術を、ついでバーミンガムの体育学校に学ぶ。体育教師になったが、父親の看病をするため3年で辞職。その後、小説を書き始め、ロンドン警視庁の警部アラン・グラントを主人公とした長編を発表。以後同警部を主人公に6作を書いた。「時の娘」はそのなかの代表作である。他に「フランチャイズ事件」など。

立ち読みフロア
 グラントは、背の高い白塗りの軽便寝台(コット)に寝たまま、天井を見つめていた。いやでたまらないと思いながら見つめていた。一点のよごれもないキレイな天井の表面にあるこまかい割れ目を、すっかり暗記していた。天井の地図を作って、川や島や大陸の探険に行ったことがあった。当て物ごっこをして、隠れていた物――人間の顔や鳥や魚を見つけだしたことがあった。天井で数学の計算をやって、定理とか、角とか、三角形とかいう、幼年時代を思い出したこともあった。じっさい天井を見てるよりほか、なんにもできなかった。いまではその眺めが、ぞっとするほどいやになった。
 グラントはオチビサンに――天井の新しい処が探険できるように寝台を少しまわしてくれないか――と言いだしたことがあった。ところが、これは室内の調和を破ることになるらしかった。そして病院では、調和は、ほとんど清潔さに次ぐもので、神信心よりよほど上位に置かれる。どんなものでもこの平衡を破るものは、病院をけがすものであった。なぜ本を読まないんですか? と、オチビサンは尋ねた。お友達がしょっちゅう持ってくる高価な真新しい小説を、なぜ読まないんですか?
「世の中には生まれてくる人間が多すぎるし、書いた物も多すぎる。一分ごとに、何百万ものことばが、印刷機から流れ出してる。考えると、ぞっとするね」
「便秘してるらしいわね」と、オチビサンが言った。
 オチビサンというのは、インガム看護婦のことであった。実をいえば、彼女はりっぱに五尺二寸あって、すべてに均整のとれた体格であった。グラントが彼女をオチビサンと呼ぶようになったのは、片手で持ちあげられそうなドレスデン焼の壺さえ思うようにならない、いまの自分のふがいなさの腹いせをしたいからであった。片手で持ちあげられるというのは、つまり、かれがチャンと両足で立っていたときの話だ。グラントが屈辱を感じたのは、彼女が、それをしてもいいとか、これをしてはいけないとか言うばかりでなく、六尺ゆたかのかれを軽々とあつかうことであった。重い物は、オチビサンにとって、見るからに、何でもないらしかった。彼女は、皿まわしのような放心状態の優美さで、寝台のわら蒲団を投げまくった。オチビサンが非番のとき看護にくるのは、アマゾン〔伝説の女傑族〕で、ブナの木の枝のような腕をしていた。アマゾンというのは、ダロル看護婦のことで、グロースターシャーの生まれなので、水仙の季節になるといつもホームシックにかかっていた。(オチビサンは、ランカシャーのライサム・セント・アンズが故郷だったから、愚にもつかない水仙さわぎはなかった)。彼女は、大きなやわらかい手と、牝牛のように大きなやさしい目の持ち主で、いつも済まなそうな顔つきをしていた。しかし、ホンのわずかでも力を出すと、吸いあげポンプのような息使いになった。概してグラントは、自分がまるで目方の無い物のようにとりあつかわれるより、重い荷物のようにあつかわれるほうが、よっぽど屈辱だという気がした。
 グラントは、寝たっきりで、オチビサンやアマゾンの看護を受けていた。それというのも、マンホールの揚げぶたから落ちたためであった。これは、もちろん、絶対的な屈辱であった。これにくらべれば、アマゾンにかつぎあげられたり、オチビサンに軽々と投げられたりするのは、単に当然の結果というだけのことであった。揚げぶたから落ちるなどとは、バカバカシイことこの上なしであった。身振り芝居をして、龍頭蛇尾に終わった、グロテスクなバカバカシサ。巡回していた通常の平面からグラントが姿を消した瞬間は、ベニー・スコールをはげしく追跡中であった。だからベニーが、その次の街角をまがったとたん、ウィリアムス刑事の両腕ひろげた処へマトモに駈けこんでしまったという事実は、がまんできない現状に、ささやかな慰めをあたえてくれた。
 ベニーは、いま三年間「くらいこんで」いて、一般民衆にはたいへんけっこうなことであった。しかし、ベニーは、善行によって、刑期が軽減されるかもしれない。病院には、善行による期間軽減は、ありっこない。

……
冒頭より

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