「我が屍を乗り越えよ」

レックス・スタウト/ 佐倉潤吾訳

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600円

しばらくのあいだ、ネロ・ウルフは事件の依頼を断わり続けていた。持ち込まれた八つの事件は、いずれもウルフの興味をひかなかったのだ。だが九つめの事件の依頼者は、奇妙な言葉──ウルフの故郷モンテネグロの言語を話す女だった。助手のアーチーが女を通すと、その顔を見たウルフは椅子からとびあがり部屋を飛びだしてしまった! 女は自分の友人ネヤがウルフの娘であることを証明する書類を携えて再び訪れ、ネヤがダイヤモンド強盗の嫌疑を受けているという。だが、事件の背後には国際的陰謀が……ウルフが自らの前半生を語るシリーズ異色作。

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

立ち読みフロア
 ベルがなったので、入口へ行ってドアを開けたら、女の人がいた。ぼくはお早うといった。
「どか」と彼女はいった、「ネロ・ウルフさあんにお会いしたいです」
 どうかあ、どっか、どうが、どう書いたってかまやしない。どう書いたところで、中西部(ミドル・ウェスト)の訛りでも、北東部(ニュー・イングランド)の訛りでも、イースト・サイド〔ニューヨークの柄の悪い地域〕の訛りでもない。アメリカの発音じゃないんだ、一寸ぼくの神経に障ったのは当たり前だ。しかしぼくは礼儀として彼女を家に導き入れて、事務室へ案内し、椅子にかけさせて、それから名前を聞いたが、綴りまで聞かないと判らなかった。
 ぼくの机の上のところの壁時計を覗いたら、十時半だったので、ぼくは、「ウルフさんは十一時まで用事です」と彼女にいった。「私は万事任されている秘書で、アーチー・グッドウィンといいます。お急ぎでしたら私に話して下さるほうが……」
 彼女は頭を振って、別に急がないといった。ぼくが本か雑誌でもと聞いたら、また頭を振ったから、うっちゃらかしておいて、机へ戻って、植物室で使う交配カードの束の書き込みに、またとりかかった。五分でこれを片付けて、カードの照合をしていたら、後ろから彼女の声が聞こえた。
「本を一冊ほしいと思います。よろしいですか」
 ぼくは書棚のほうに手を振って、どうぞご随意にといって、照合をつづけた。チョットして見上げたら、彼女が一冊の本をもってやって来て、ぼくのそばに立ち止まったところだった。
「ウルフさあんはこれを読みますか?」と彼女は聞いた。静かな優しい低い声で、単語の発音の仕方さえ勉強してくれたら、耳ざわりなところは何もないんだがなあ。ぼくは標題を一目見て、ウルフはもうそれを読んでしまったといった。
「しかしまたべんきょうしますね?」
「そんな必要ないんですよ。彼は天才なもので、何も勉強することはありませんよ」
「一度読むと、それであと読まないのですか?」
「その通り」
 彼女は椅子のほうに行きかけたが、またこっちを向いた。
「あなたはたぶん読みますね?」
「読みません」とぼくは力をいれていった。
 彼女は微笑しかけた。「あなたには複雑すぎますからね、バルカンの歴史は」
「たしかに。王様も女王もみんな殺されたんでしたね。私には、新聞に出る殺人事件のほうがいいですよ」
 彼女は微笑するのをやめて、椅子のところへ行って、本を持って腰を下ろした。数分たって、ぼくが照合をすませて、そのカードの束をゆすぶってきちんと揃えて、それを持って部屋を出たときには、彼女はその本に読み耽(ふけ)っているようだった。ぼくは絨毯を敷いた階段を二つ上って、一番上の階へ行き、それからもっと急な階段を登って屋上へ行った。屋上は鉢植え室とホルストマンが寝る片隅以外は、全部蘭(らん)用にガラス張りになっている。銀メッキをした鉄の足台と、コンクリートの陳列台と、ごく小さな苗から満開のオドントグロッスムとデンドロビウム〔どちらも蘭の種類〕に至るまで、ありとあらゆるものがある数千の鉢の間の通路を通って、最初の二つの部屋を通り抜けたら、ウルフが温室で、両手の親指を尻のところに当てて立ったまま、ホルストマンに渋い顔をしていた。ホルストマンはホルストマンで、白い花弁とオレンジ色の竜骨弁があるとても大きなセロジネ〔蘭の種類〕の花に、咎めるように苦い顔をしていた。ウルフはつぶやいていた。
「完全に二週間だ。いくら少なく見ても、十二日間だ。ハンザ僧正の言い草ではないが、神はなぜこんなことを許したのかな。これが促成栽培の問題だけなら……なんだね、アーチー?」
 ぼくはホルストマンにカードを渡した。「あの分のミルトリアとリカステ〔ともに蘭の種類〕のです。発芽の日付はちゃんと書いてあります。女の移民が下にきていて、本を貸してくれっていいましたよ。年は二十二、いい脚をしています。不機嫌そうな顔をしていますが、目鼻立ちは整っていて、黒い綺麗な心配そうな眼をしています。いい声ですがね、『愚人の喜び』のリン・フォンタン〔ロンドン生まれの舞台女優〕みたいな喋り方をしますよ。名前はカルラ・ロヴチェンっていいます」
 ウルフはホルストマンからカードを受け取って、ぱらぱらっと目を通していたが、それをやめて鋭い目つきでぼくを見た。
「何だって?」と彼はきいた。「それがその人の名前か?」
「ロヴチェン」ぼくは綴りをいって、にやっと笑った。「いいですか、私もおやっと思ったんですよ。私は『民族の復帰』って本を読みましたよ、覚えているでしょ。彼女は山の名を自分につけたらしいんですよ。黒山(ブラックマウンテン)。ロヴチェン山。ツルナゴーラ。モンテネグロ。〔モンテネグロは国名で、黒い山の意味。ロヴチェン山はモンテネグロの名山で、黒く見えるから黒山の異称がある。ツルナゴーラも、現地の言葉であるセルボ・クロアチア語で黒い山ということであり、現地ではこれを同時に国名としている。モンテネグロは外国で呼ぶ国名〕モンテネグロっていうのは、モンテ・ネロ〔イタリア語、モンテは山、ネロは黒〕のヴェニス訛りですし、あなたの名前はネロでしょ。これはほんの偶然の一致かもしれませんがね、訓練された探偵にとっては、当然――」
「その女は何を望んでいるのかね?」
「あなたに会いたいっていうんですがね、本を借りに来たんだと思いますよ。書棚からヘンダスン〔英国の外交官〕の『統一されたユーゴスラヴィア』を取り出して、あなたがそれを読んだかとか、べんきょうするかとか、私が読んでるかとか、いろんなことを聞きましたよ。いま下でしきりに読んでます。だけど本当に心配そうな目付きをしてますよ。私はこういってやろうと思ったんです、銀行勘定が健全な状態にあるから……」
 ぼくはいいかけてやめた、彼はぼくを無視してカードに注意を集中していたからね。ぼくは彼に聞こえるようにふんといって、廻れ右をして、階段のほうへ行った。
 さっきの移民嬢はまだ腰を下ろして、読んでいたが、今度はさっきの本ではなくて、雑誌だった。ぼくは本を書棚に返そうと思ってあたりを見廻したが、彼女がもう返していた。ちゃんと元の場所に入れてあった。大抵の女の子というものは、家の中を散らかし放題なのに、感心だなとぼくは思った。ぼくは、ウルフはすぐに降りて来るといって、タイプライターから紙をはずして片付けたばかりのところへ、彼の専用エレベーターの扉がガチンと開く音がして、一瞬後に彼が部屋にはいって来た。机の一歩前で、彼は客の存在を認めて、歩みを止めて一寸お辞儀をしたが、体を垂直からわずか一度傾けただけのお辞儀だ。それから彼は椅子まで歩みをつづけ、腰を下ろし、カトレヤを生けた花瓶と、文鎮の下の朝の郵便物を一寸眺め、ビールをいいつけるためにベルのボタンを親指で押し、椅子に深くもたれて体を落着け、太い吐息をした。訪問者は、雑誌を閉じて膝の上に置き、長い睫毛の下から彼をじっと見ていた。
 ウルフはいきなりずばりといった、「ロヴチェンだと? これはあんたの名前ではない。人間の名前ではない」
 彼女のまつげが震えた。「私の名前は」と彼女は半ばほほ笑みながらいった。「私のいうとおりです。あなたはそれを便宜上の名前だというのですか。クラルエヴィッチというような名前では、アメリカ人がいやがるから、変名したというのですか」
「それがあんたの名かね?」
「いいえ」
「どうでもよろしい」ウルフの声は癲癇を起こしているように聞こえた――ぼくの見たところでは別にそんな理由はないんだが。「あんたは私に会いに来たのかね?
 彼女は口をあけてやさしくちょっと笑った。「あなたはツルナゴーラ人のような言い方をします」と彼女ははっきりいった。「アメリカ流にモンテネグロ人といってもよろしいです。あなたはそうは見えません。ツルナゴーラ人は背はぐんぐん高くなりますが、あなたのように大きくなり過ぎて膨れ上がりはしませんから。ですがあなたが話をすると私は国にいるような気がします。ツルナゴーラ人は、女の人にちょうどそういう話し方をします。あなたの食べもののせいですか?」
 ぼくはウルフのほうをむいてにやっと笑ってやった。彼はまるで吼(ほ)えるように彼女に訊いた。「用事は何かね、ロヴチェンさん?」
「そうでした」彼女の眼にはまた心配の色が現われた。「あなたにお会いしたので忘れていました。あなたは有名なお方です、私はよく知っています、ですが有名なお方のように見えません。あなたはそれよりも――」彼女は言葉を切って、唇を小さく丸めて、それから続けていった。「とにかく、あなたは有名なお方で、モンテネグロにいらっしゃいました。ね、私はあなたのことをよく知っているでしょう。フヴァラ・ボーグ。困ったことがありまして、あなたにお頼みしたいものですから」
「どうもそれは――」
「私が困っているのではありません」彼女は急いで後をつづけた。「私のお友達、少し前に私と一緒にアメリカへ来た女の人です。名前はネヤ・トルミッチといいます」長い黒い睫毛が震えた。「私の名がカルラ・ロヴチェンというようなものです。私たちは一緒に、四十八番通りのニコラ・ミルタンの教習所で働いております。ご存知でしょう?」
「会ったことはある」ウルフはつっけんどんに認めた。「私の友人のマルコ・ヴクチッチ〔ウルフの親友でニューヨークで高級料理店を経営している〕のところへ食事に行った時だ。しかしいま私は忙しすぎるからどうも――」
 彼女は前に進み出た。「私たちはフェンシングは上手なのです、ネヤさんも私も。ザグレブ〔クロアチアの首都〕のコルシニ先生から、フォイルとエペとサーブル〔フェンシングの三つの種目〕の免状をいただきました。それにダンスはもちろん易しいです。私たちはラムベス・ウォーク〔一九三〇年代末に流行したダンス〕を二十分間で覚えました。それをお金持の人たちに、五課程で教えています。その人たちは沢山お金を払いますが、ニコラ・ミルタンさんがそれをとって、私たちにはわずかしか払いません。それですから、ネヤさんが馬鹿げた災難にまきこまれましても、私たちはあなたに、ほかの人のように沢山お払いできません。ですが少しはお払いします、それに、私たちはザグレブから来ているのです。ネヤさんがまき込まれているのは、小さな災難ではなくて、大きな災難です。しかもネヤさんに悪いところは少しもありません。ネヤさんが泥棒でないということは、あの馬鹿なアメリカ人以外はだれも知っています。ネヤさんは刑務所へ入れられますから、あなたは早く行動して下さらないといけません、すぐに――」
 ウルフはしかめっ面をしていた。彼は銀行の残高が五桁になっている時は仕事に煩わされるのをいつもいやがるのだが、そんなことどころではなく、何かに心をかき乱されて非常に悩んでいるように見えた。彼は駄目々々というように彼女のほうに掌(てのひら)をつき出して、説得に力(つと)めた。
「何しろ忙しすぎて――」
 彼女はすぐこれを遮(さえぎ)った。「私はネヤさんの代わりに来ました。ネヤさんは今朝大事な授業がありまして、私たちは今の仕事を失わないようにしなければなりませんものですから。ですが、あなたはネヤさんにどうしても会わなければいけません。ですから、あそこへ行かなければなりません。それにいずれにしても、ミルタンさんは、事件のけりをつけるために、今日、今日の午後、みんなをそこへ集めることになっています。ネヤさんが男の人のポケットに手を入れて、ダイヤモンドを盗むなどということは、とうてい考えられない、じつに馬鹿げたことですけれど、ダイヤモンドがもどらないということになると、ミルタンさんがいっているようなことになると、もし本当になったらば、大変です――いいえ、待って下さい。――私に話させて下さい――」
 ぼくはぽかんと口を開けていた。驚いたんだ。二時間植物室に立っていたあと、ウルフは十一時に事務室へ入って椅子に腰を落ち着けると、気持よく彼をうるさがらせてやるこのぼくと、フリッツがもって来たばかりのビールを乗せた盆を相手に、いつもなら二トンもある丸石みたいに、てこでも動かないんだ。それなのに今日は、彼は立ち上がっている。立ってしまった。彼は弁明とも呪詛ともとれるようなことを何かつぶやいて、ぼくにも彼女にも目をくれず、玄関へ通じるドアから堂々と出ていってしまった。僕達は彼の出ていくのをじっと見ていた。それから移民嬢はぼくのほうを向いて、目を大きく開けてみせた。
「体の具合が悪くなったのですか?」と彼女はきいた。
 ぼくは頭を振った。「奇人なんですよ」とぼくは説明してやった。「一種の病気といってもいいんですがね、脳震盪や百日咳みたいにはっきりしたもんじゃないんです。いつだったか、有名な弁護士がいま丁度あなたの掛けているその椅子にかけていた時ですが――なんだい、フリッツ?」
 ウルフが出ていったドアがまた開いて、フリッツ・ブレンナーが困ったような顔をして、そこに立っていた。
「一寸台所へ、アーチーさん」
 ぼくは立ち上がって、彼女に失礼といって、台所へ行った。昼食の支度をしかけたところで、それが大きなリノリウムを敷いたテーブルの上に、雑然と並んでいたが、ウルフが急に食物に猛烈な好奇心を起こして、台所へ飛び込んだのではないことは明らかだった。彼はぼくの正面の冷蔵庫の向こうの端のところに立って、そんな必要な全くないと思われるのに、いかにも何か決心したような顔をしていたが、ぼくが入って行ったら、急にこういった。
「あの女を帰してしまえ」
「何ですって!」ぼくはたしかに一寸腹を立てた。「あの女の子は、いくらかでも払うっていったじゃありませんか。そんな残酷なこと、するもんじゃありませんよ。あの子の眼を見て、ネヤっていう友達が本当にダイヤモンドをとったと判ったにしたって、少くともあなたは――」
「アーチー!」今迄きいたことのないような敵意に満ちた声だった、「私が、肉体的に逃げたというのは、生涯にただ一度、ある一人の人間からだけだが、その人間というのはモンテネグロの女だった。何年も前のことだが、私の神経はまだ覚えている。この家でモンテネグロの牝の『フヴァラ・ボーグ』という声を聞いた時、私がどんな気持ちがしたか、説明したくもないし、するつもりもない。あの女を帰してしまえ」
「ですが別に――」
「アーチー!」
 ぼくは望みないなと思った。彼が恐怖に捕われているのか、それとも大見得をきっているのか、それは判らなかったがね。ぼくは断念して事務室に戻って、彼女の前に立った。
「ウルフさんは、お気の毒ですが、お友達の方のご災難を何とかする手助けはできないというのです。忙しいもので」
 彼女は顔を後ろに傾けて、ぼくを見上げた。そしてはあはあ息を切らせながら、「でもそれはいけません――あの方はどうしても!」といった。それから急に飛び上がった。ギロっとぼくのほうを見たので、ぼくは一足後ろに下がった。「私たちはツルナゴーラから来たのです! あの人は――私の友達は――」怒りであとがいえなかった。


……巻頭より


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