「死が二人をわかつまで」

ジョン・ディクスン・カー/仁賀克雄訳

ドットブック 224KB/テキストファイル 153KB

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「きみの婚約者レスリーは過去に3人の男をつぎつぎと毒殺したのだ」劇作家マーカムにこの恐るべき話を詳しく打ち明けた有名な病理学者は、その翌朝、青酸を注射され、密室のなかで死んでいた。はたして、これも同様な方法による毒殺なのか? レスリーは疑われて当然だった。平和な村に渦まく黒いうわさ…複雑怪奇な謎にいどむフェル博士。密室の謎は解けるのか? カー中期を代表する傑作。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。代表作「火刑法廷」「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「三つの棺」など。

立ち読みフロア


 あとから考えてみれば、バザーでの夏の嵐、占い師のテントや射的場で起こったこと、そのほかいくつかのできごとは、事件の前兆だったのかも知れないと、ディック・マーカムには思い当たるのだった。
 しかし当時は、天候のことなどあまり気にとめていなかった。彼はそれほど有頂天だったのだ。
 彼とレスリーがグリフィンとトネリコの紋章で飾られた石柱のある、開放された門を入ると、向こうはアッシュ・ホールの敷地へと続いている。よく刈り込んだ芝生には、ごてごてした屋台と縞模様のテントが並んでいる。背後には樫の木がおいしげり、周囲には赤い煉瓦を積んだホールの低い境界線が長く続いていた。
 四、五年もたてば、この光景は苦々しくも懐かしさをもって、ディック・マーカムの脳裏に浮かぶことだろう。みずみずしい緑に燃えるイングランド。白いフランネルと、もの憂《う》い午後のイングランド。このイングランドが、いかなるたわごとのせいであれ、よりよき世界を失うことのないように祈りたい。ヒトラーの戦争がはじまる一年ほど前、そこには潤沢さがあった。その豊かさは、現アッシュ男爵ジョージ・コンヴァースの資産には当てはまらなかったが。しかし、いささか想像力過剰な長身の青年、ディック・マーカムはそんなものにはほとんど目もくれなかった。
「あら、かなり遅れてしまったわ」レスリーは息をはずませ、なかば笑いながらあっけらかんといった。
 二人はいくぶん足を急がせていたが、しばし立ち止まった。
 暑い午後の大気を涼しい突風が吹き抜け、芝生を激しく荒らしていった。レスリーはうすく透いたピクチャー・ハット〔花や羽根で飾ったつばの広い帽子〕を両手であわてて押さえた。けむりのようなゆるやかに流れる雲で、空は夕方みたいに暗くなった。
「ねえ、いま何時ごろ?」とディック。
「とにかく三時は過ぎたわ」
 彼は前方に顎をしゃくった。嵐の影はサングラスを通した日光のごとく、あたりを悪夢にも似た非現実なものに見せている。芝生には何ひとつ動くものがない。突風で人々が落ち着かなくなったせいか、テントや屋台は閑散としていた。
「でも……みんなどうしたのだろう?」
「おそらくクリケットの試合よ、ディック。急がなくちゃ、レディ・アッシュやミセス・プライスがおかんむりよ」
「こんなことで?」
「うそよ」レスリーは笑った。「そんなことはないわ」
 帽子の縁に手をやり、笑いながら息をはずませている彼女をディックは見つめた。その笑いを浮かべた口元とうらはらに、やりきれないほど真剣なまなざしを見てとった。すべての想念と感情が褐色の眼に集まっているようだ。その眼は昨夜の打ち明け話を思い出させてくれた。
 その上げた腕にもさりげない優雅さがあり、強い風のせいで白いフロックは身体の線をくっきり見せている。彼女のちょっとした唇のわななき、眼くばりにさえたまらない魅力があり、そのたびごと、さまざまな仕草がディックの脳裏に焼きつけられた。
 その午後、かたくるしいガーデン・パーティ会場、アッシュ邸の静かな庭園に入ると、レディ・アッシュはうつろな眼で二人を迎えてくれた。うわべだけでもしきたりにこだわるマーカムは、人目もはばからずレスリー・グラントを抱き、口づけする気にはならなかった。
 このとき風は庭園を吹きすさび、空はますます暗くなった。二人の会話は(だれも水をさすものがいないので)いささか取りとめのないものだった。
「愛してる?」
「もちろん。きみは?」
 昨夜からあきもせぬ同じ睦言《むつごと》のくりかえしだった。ところがそのたびごとに新しい発見があるようで、それを実感してはめくるめく想いに浸っていた。ディックは自分たちがどこにいるかをうつつにさとって、とうとう腕を解くと空を仰いだ。
「ぼくらもあのくだらないクリケット試合に行かなくてはならないのかい?」
 レスリーはためらった。極度に高揚した感情が眼から消え、空を見上げた。
「まもなく雨が降ってくるわよ。クリケット試合ができるかどうか。それに……」
「それに、なんだい?」
「占い師に見てもらいたいの」とレスリー。
 ディックはそれには答えず、頭をのけぞらすと大笑いをした。彼女のいかにもうぶな態度とあまりに思いつめた様子を考えると、自分の感じたことを表わすには高笑いしかなかったからだ。
「ミセス・プライスの話では、よく当たるそうよ」彼女は急いで断言した。「それで興味を持ったの。あなたのことも洗いざらい占えるといっていたわ」
「きみはもう知っているじゃないか」
「一緒に見てもらいましょうよ」
 東の方でかすかな雷鳴がした。レスリーの手をかたくにぎりしめると、彼は芝生に点在している屋台に向かって砂利道を駆けていった。それらの小屋は雑然とちらばっていて統制がとれていなかった。ココナッツ落としから金魚すくいまで、出店のあるじたちは自分の芸術的趣味を誇示していた。そのため占い師のテントも見まちがえようもなかった。
 そのテントは他の出店からはなれてアッシュ・ホールの近くにあった。テントのかたちは不格好な電話ボックス状で、すそ広がりに頂上が尖っている。うす汚れたキャンヴァスには紅白の縦縞が入っていた。テントの垂れ幕は「全知全能の偉大なるスワミ、手相鑑定家、水晶透視者」ときれいな字で書かれ、大きなボール紙で作った手型に説明の矢が突き刺さっている。
 空はすっかり曇っていたが、ディックには占い師のテントの灯がはっきりと見えた。内部は午後の熱気で息づまる暑さだろう。激しい突風がテントを吹きぬけ、キャンヴァスをぱたぱたさせたので、テントは半分しぼんだバルーンみたいに傾いた。手型がゆれ動いて二人を招いているかのように不気味だった。そのとき声がした。

……巻頭より


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