「列車の死」

F・W・クロフツ/高橋豊訳

ドットブック版 293KB/テキストファイル 235KB

600円

第二次大戦中、ドイツ軍の猛攻にさらされていた英国政府は、急遽、極秘の物資輸送を決定した。だが、その輸送列車のちょっとした故障のために、先行した旅客列車が轟音と共に転覆した! 破壊工作の跡が発見され、計画の漏洩に気づいた政府は、ロンドン警視庁に捜査を命じ、フレンチ警部はスパイ組織壊滅の密命を受けた。突破口を開くべくフレンチは一計を案じた……クロフツが該博な鉄道知識を縦横に駆使して描く本格巨篇。

クロフツ(1879〜1957) イギリスのミステリー黄金時代を代表する巨匠のひとり。犯人の堅牢なアリバイをくつがえす「アリバイ崩し」の作風がとくに有名。デビュー作の「樽」はクリスティの「スタイルズ荘の怪事件」と同年に刊行され、黄金時代の幕をあけた。アイルランドのダブリン生まれ。17歳のとき鉄道会社にはいり、以後1929年に作家としてひとり立ちするまで鉄道技師として勤務、ミステリーを書き始めたのは40代になってからだった。なかでも「足の探偵」フレンチ警部ものが人気を博した。

立ち読みフロア
 イギリスの首相サヴィーラス・L・ヘッペンストール閣下は、マットレスのスプリングをかすかにきしませながらベッドの中で静かに身をゆり動かした。そしてもうろうたる夢の世界からきびしい現実への道を、心にむち打ちながらゆっくりもどりはじめた。やがて彼は目を開け、起床時刻まで三十分あることを知って、安堵のため息をついた。
 彼はしばらくのんびり横になっていたが、やがて彼の責任の全重量が洪水のようにどっと押し寄せてきた。戦争は三年目を迎えて、彼は世界中のだれよりも重い荷を背負っていることを自覚していた。そしてその日その日の個々別々の重みに耐えることに努め、決して未来を見通そうとしないことによって、いままで持ちこたえてきたのだが、ときどき彼の鉄のような意志すらも重圧の下でぐらつくことがあった。
 しかし、目を覚ましたときにふと頭に浮かぶ考えは、多くの場合何らかの安らぎを彼に与えた。まるで彼の守護神が彼を救い出すために夜どおしせっせと働いていたかのように、朝はしばしば前日の解決できなかった問題に対する解答をもたらした。いまもそうだった。彼は寝具のために多少短縮された彼独特の右手の手ぶりを添えながらつぶやいた――「よし、あれを外地へ送ることにしよう」そしてほとんど同時に、彼を悩ましていた一つの問題が片づき、一つの重大な決断が下されたのだという解放感をおぼえた。
 ある輸送列車の計画はまだ首相の心から遠くかけ離れていたが、その列車の受胎への第一歩が踏み出されたのは、まさしくその瞬間だった――すなわち一九四二年七月六日月曜日午前七時三分だったのである。

 *

 それから三時間後に、首相はリッチモンド・テラスの、ある官舎の会議室のテーブルの席について、その朝の戦時内閣の定例閣僚会議を主宰していた。肩はばが広く、どっしりとした体格で、やや猫背な彼がそこに坐っていると、堂々として威厳があった。きびしくたくましい精神力が、顔や姿かたちのあらゆる線に克明に表われていて、響きのいい声すらも生まれつきの指導者らしい権威のある調子をおびていた。

……冒頭より

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