「愛の砂漠」

モーリアック/遠藤周作訳

ドットブック 197KB/テキストファイル 147KB

500円

高名な医師クーレージュは、町の有力者の愛人になっているマリア・クロスという未亡人に惹かれる。だが、こともあろうに18歳の自分の息子のレイモンが同じ女の虜になるとは! 地方都市ボルドーを舞台に、孤立した人間の心の暗部を描いたモーリアックの代表作。モーリアックに傾倒した遠藤周作の翻訳でおくる。

モーリアック(1885〜1970) ボルドー生まれのフランスの作家。ボルドー大卒業後パリに出て、コクトー、バレスなどと交友し、詩で認められる。第一次大戦には看護兵として従軍、戦後発表した小説「癩者への接吻」で注目され、「火の河」「愛の砂漠」「テレーズ・デスケルウ」など、ボルドー地方を舞台とした作品で「神なき人間の苦悩」を描くカトリック作家の代表としての地位を築いた。他の代表作に「蝮のからみあい」「夜の終わり」「黒い天使」などがある。

立ち読みフロア


 長い歳月、レイモン・クーレージュはマリア・クロスと再会するのを待っていた。仕返しをしてやろうと考えていたのである。往来で見も知らぬ女性とすれちがうたびに探している相手ではないかと後を追ったことも何度あったかわからぬ。だが時が経つにつれ、怨《うら》みもかなり鎮まった。そして遂に運命のめぐり合わせで彼女に会えた時、起こるはずだった怒りの混った震えるような快感をすぐに感じなかったのである。
 その夜、デュフォ通りのバーに入って行った時はまだ十時で、混血の黒人ジャズ歌手が客待ち顔のマネージャー一人のためにひくい声で歌っていた。夜中になると、何組ものアベックたちがおどる狭い店では、一台の扇風機が大きな蝿のような音をたてている。
「お珍しい、こんな時刻にいらっしゃるとは」驚くドアボーイには答えずレイモンは、手で扇風機のぶんぶんとした音を止めてくれと、合図をした。「これは新式の方法で、風を出さず、たばこの煙を吸いこむんです」ドアボーイは声をひそめて彼を納得させようとしたが、効果がなかった。じっと自分をみつめるクーレージュのこわい顔に怯えたボーイはクロークの方へ逃げていった。天井の扇風機も、蜜蜂が飛びまわるのをやめるように、静まった。
 染み一つないナプキンの列をわけ入ると、彼はふと鏡に、面白くない日のわが顔を見て、「何がうまくいかないんだよ」と自問自答した。答えははっきりしている。夜の遊びが次々と目茶苦茶になったことが癪《しゃく》なのだ。今夜もあのエディ・H……のため無駄になった。あいつをつれだすにも、ほとんど無理強いに家でとっつかまえキャバレーに引っぱり出さなければならなかったくらいだ。食事をしている間も奴は話に身を入れず、それも頭痛のせいだと弁解しやがった。椅子の端に腰をおとすと、いらいらした様子で待ちかまえている。何かお楽しみに気をとられ、食後のコーヒーを飲み終えると、急に陽気になりやがって、眼を輝かせ、耳を赤くして、小鼻をふくらませ、逃げ去るように、去ってしまったのだ。一日中、俺は、この夕暮れと夜とを楽しみに考えていたのに、あの野郎には俺の打ち明け話などよりも、新しい魅力のあるお楽しみが待っていたんだろう。
 そう思うとクーレージュは当てがはずれ、屈辱感を味わっただけでなく辛い気分になったのに、われながら驚いていた。今まで最低の男と思っていた相手が急に自分にとって大事な大事な存在だったと気がついてびっくりしたのである。こんなことは今までの彼にはなかったからだ。三十になるまで、友だちとつきあうためには淡々とした関係が必要なこともわからず、その上、女ばかり漁り歩いたので、所有の対象にならないようなものは、すべて馬鹿にしてきた彼である。だから食いしんぼうの子供のころそのままに彼は、「がつがつ食えるものでなければ好きになれないんだ」と言わんばかりだった。その頃の彼とくると自分の仲間を、色ごとの証人か、打ち明け話の聞き役ぐらいにしか扱っていなかったのである。友人は彼にとって一対の耳のようなものだったのだ。そのくせ俺は友達を支配し、好きなように操っているのだと好んで思いこんでいたのである。他人に影響を与えることに情熱を感じ、計画的に堕落させてはうれしがっていたのだ。
 レイモン・クーレージュの祖父は外科医だった。大伯父はイエズス会の神父だったし、父親は医者だった。彼もその放埓《ほうらつ》な欲望をちゃんとした職業に向け、一時の欲望をみたすものだけを追うような傾向を持っていなかったなら、これら一族のように人から尊敬される男になれたかもしれぬ。肉体よりも精神に眼をむけた人だけが他人を支配する年齢があるものだが、レイモンはその年齢になりながら、とりまき連中に、肉欲の悦びをみたす女を確保してやるぐらいしかできなかったのである。だが若い連中は、自分と同年輩の者とつきあいたがる。おのずと彼の周りに集まる者も貧弱になっていった。情事の獲物だけは長い間にどんどん増えていったが、共に人生をふみだした同年輩の小グループは年ごとに数が減っていった。第一次大戦の殺戮から生き残った連中は、結婚生活に埋もれたり、職業によって歪められてしまったが、クーレージュは、彼等の白いもののまじった髪や、つき出た下腹、地肌の見える頭を見ては、自分もこの連中と同年輩であることが情けなかった。連中が青春を殺し、青春が自分を見捨てる前に、みずから若さを捨てていると彼は罵《ののし》っていたのである。
 だから彼は戦後の青年たちの中に自分を入れては得意がっていた。――そしてこの夜、弱音器をつけたマンドリンが低くメロディーをかなでている(メロディーの炎は消えかかり、また燃え上がり、ゆらゆらゆれていた)空虚《うつろ》なバーで、彼はあちこちの壁の鏡に写された、まだ濃い髪をもったわが顔を――三十五歳という年齢にしてはまだ老いの翳《かげり》のしのびよっていない顔を食いいるように眺めた。そして老いは俺の肉体よりも人生のほうを犯しているなと思った。実際、「あの背の高い青年はだれ?」と女たちが互いにささやきあうのを聞くと、自尊心はくすぐられたが、もっと眼のきく二十代の青年たちが青春という短い種族の仲間に自分を入れてくれないことも知っていた。あのエディの野郎にも、サックスの騒音の中で明け方まで打ち明け話をするよりももっとましな楽しみがあるにちがいない――。だが奴だって、実際、今頃どこかのバーで一九〇四年生まれの青年を相手に自分の心の打ち明け話をしているかもしれないのだ。そしてその青年は「僕もそうだ」とか「全く僕みたいだ」とか絶えず彼に相づちを入れたりしているだろう。
 若い連中がどやどやと入り込んでくる。彼等はすました尊大な態度でホールを横切ろうとしたが、がらんとしたバーの様子に気づいて、当惑した様子である。この連中はバーテンダーのまわりにかたまった。その間もクーレージュは、情婦であろうと、仲間であろうと、他人のことで苦しむなどまっぴらだと思っていた。だから彼はいつもの伝《でん》で、エディ・H……のつまらなさを考え、そんなくだらぬ奴にふられて心が動揺する筈はないじゃないかと思いこもうとした。そしてこの不快感の芽を引き抜こうとすると、意外や、その根まで何の抵抗もなく引き抜けたのがうれしかった。気が大きくなった彼は、あいつに明日はこちらから門前払いをくわしてやろうと思ったほどである。奴とは絶交しても平気な気さえする。「野郎、お払い箱さ」心で言ってみると、さばさばした気持になる。彼は溜息をついた。ところがすぐ心の中にまだ別のわだかまるものが残っているのに気づいた。これはエディが原因ではない。そうだ。この手紙だ。タキシードのポケットの中をまさぐってみる。この手紙のせいだ。読み返すまでもない。父親のクーレージュ医師は、自分の息子には、覚えやすい簡単な文章しか使わない。

 医学会議の開催中、グランド・ホテルに投宿。朝は九時前、夜は十一時以降、会ってもよい。
 父
 ポール・クーレージュ

 レイモンは「だれが行くかね……」とつぶやくと知らず知らずに挑むような態度をとった。親父だけは家族の他の者のように無視できぬ相手であるのが腹立たしい。三十歳の時に、レイモンは嫁いだ姉が持っていった持参金を取り返してもらいたいと申しこんだが駄目だった。両親の拒絶にあって、彼は家と縁を切ったのである。が、その財産は母親のものだったし、親父はもし自らに権利があったのなら、もっと彼に寛容な態度を見せてくれたろうし、金銭にも淡白な人だということもレイモンは知っていた。彼はくり返した。「だれが行くもんか……」しかし、この伝言の冷淡な文章の中にも、父の呼び声を聞かずにはいられなかった。レイモンは母親ほど何もわからぬ人間ではない。レイモンの母親のクーレージュ夫人は夫の冷淡さや、ぶっきらぼうな様子に、いらいらして、いつもこうくり返していた。「夫が良い人だとよそさまがおっしゃったところで、私には何にもなりませんよ。私にそのことがわからないのでしたら仕方がありませんからね。あれで、本当に意地が悪かったら、たまったもんじゃないわ」
 レイモンは、憎もうとしても憎めないこの父の呼び声に動きのとれぬ気持にさせられた。返事なんかするものか。でもやはり……あとになってレイモン・クーレージュがこの夜の状況を思い起す時、彼はこの閑散とした小さなバーに入った途端に感じたあの不快感を、心に浮かべるのである。だがその原因が、エディという仲間の冷たいやり方や、父親がパリにいるために生じたということはすっかり忘れていたのである。むしろこの不快感は、予感から生れたもので、その夜の彼の心の状態と、自分の人生に近づきつつある事件とは、一つの糸で結びつけられていたのだと思う。その後もずっと、ただエディ一人で、あるいは父だけで、このような不安感に自らを陥れられるはずはないと思いつづけた。そうではなくて一杯のカクテルを前にして坐るとすぐ、心も体も、あの女が近づきつつあることを本能的に予感したのである。ちょうどその時、早くもデュフォ通りの角にさしかかったタクシーの中で、小物入れをのぞき込みながら連れの男に一人の女がこう言っていた。
――困ったわ。口紅を忘れてきたの。
 男が答えた。
――化粧室に備えつけがあるさ。
――いやだわ! 病気がうつるわよ。
――グラディスが貸してくれるよ。

 女がはいってきた。顔の上半分が釣り鐘のような形をした帽子で隠れている。だがその年をどうしてもかくすことのできぬ顎が見える。四十代という年がこの顔の下半分にあちこち痕《あと》をのこし、皮膚はくたびれ、牛の咽喉のようにたるみ始めている。毛皮の外套の下で、その肉体も小さいにちがいない。闘牛場の柵から出た牛のように、きらきら光るバーの入口の所で、眼がくらんだのか一瞬立ち止った。運転手と押し問答していた連れが、彼女に追いついた時、クーレージュは、男が誰か思い出せぬながら、こうつぶやいた。「どこかで見た顔だな……そう、ボルドーで見た男だ」自信で脂ぎったように見えるこの五十がらみの男の顔をじっと見ているうちに、思わずその名前が唇に出かかった。ヴィクトール・ラルッセル。

……巻頭より


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