「毒婦伝奇」

柴田錬三郎作

ドットブック版 231KB/テキストファイル 148KB

500円

柴錬立川文庫第7弾! 「毒婦」「悪女」といわれた女たちを描いた連作。「遊女松笠」「千人於梅(おうめ)」「勇婦桜子」「側妾(そばめ)三代」「四谷怪談・お岩」「妲己(だっき)の於百(おひゃく)」「高橋お伝」など。そこには一般の伝承とは異なった、柴田錬三郎ならではの解釈が脈打っている。

柴田錬三郎(1917〜78)岡山県生まれ。慶大支那文学科卒。在学中から「三田文学」に作品を発表しはじめ、「イエスの裔」で直木賞受賞。「眠狂四郎無頼控」で一躍、時代小説の第一人者、人気作家となった。代表作には「剣は知っていた」「赤い影法師」「柴錬立川文庫」の連作などがある。

立ち読みフロア

 本稿は、非人小屋頭(ひにんこやがしら)・五代(ごだい)車善七が、老衰の身を起して、さる文人に、語った昔話を、そのまま、紹介するものである。
 非人とは、賤民(せんみん)にして、乞丐(こじき)の徒のことであり、人にして人に非ずの意味である。
 したがって、その非人の小屋頭とはいえ、賤民であることにまちがいはない。
 しかし、車善七の先祖をたずねると、立派な武辺(ぶへん)である。 
 車野丹波守といい、佐竹常陸介義宣の家老職をつとめ、石田光成とは婚姻関係にあった。
 関ヶ原の乱が戡定(かんてい)の後、背叛(はいはん)の咎(とが)を蒙(こうむ)って車野丹波守は、徳川家康のために、磔(はりつけ)に処せられた。その嫡子(ちゃくし)善七郎は、これを深く恨みとして、家康を討(う)とうと計った。
 事前に露見(ろけん)して、逮捕されたが、家康は、その孝情を憐(あわれ)んで、寛仮(かんか)に附し、旧主佐竹氏に仕えるように、すすめた。
 善七郎は、頑(がん)として肯(がえん)ぜず、すみやかに、首を刎(は)ねてもらおうと、昂然と頭(こうべ)を擡(もた)げた。
 家康は、いぶかって、
「討たんとする敵から宥(ゆる)されるのが、それほどの恥辱ならば、なぜ捕らえられる前に、自害せなんだ」
 と、訊ねた。
 善七郎は、笑って、
「すみやかに首を刎ねられい、と申上げているのは、恥辱のためではありませぬ。天下人たる大御所の生命を狙った罪人を、宥したとあっては、公儀法度が曲げられたことに相成ると存じ、罪人はその罪の軽重に応じて罰せられるべきだと申し上げて居ります」
 と、こたえた。
 家康は、愈々(いよいよ)その心構えの清純に感じて、獄から解いて去らしめた。すると、善七郎は、すすんで身を非人の群に投じた。家康は、これをきき、幕吏(ばくり)に命じて、善七郎を、非人の首長にした。
 善七郎は、車善七と姓名を改めて、非人の群を統括(とうかつ)し、囚人の取扱い、死罪人引きまわしの護衛、獄門執行の雑役をなすとともに、浅草と品川に設けられた病気の囚人を収容する小屋(俗に、溜(ため)と称(よ)ぶ)を司(つかさ)どった。
 爾来(じらい)、車善七は、非人頭を世襲した。
 本稿の逸話を語ったのは、五代である。

 一

 左様でございます。死罪人の市中引きまわしというものには、もちろん、定めがございます。
 小伝馬町(こでんまちょう)の牢屋から引き出した囚人を、非人らが、馬に乗せます。はだか馬ではなく、鞍代りに、菰(こも)が敷いてあるのでございます。囚人は、後手に縛ってありますから、落ちないように、縄で、馬の胴へ、くくりつけます。囚人が重い病いの場合、あるいは、心神喪失(しんしんそうしつ)の場合は、曲※(きょくろく)(※は碌の字のつくり)というものを鞍につけて、これに凭(よ)りかからせるのでございます。
 引きまわしの行列は、非人五人が先払い、抜身の朱槍二本、罪状を記した捨札がつづき、あとに、紙幟(のぼり)をかかげた「谷(や)の者」。幟には、囚人の姓名が記してございます。それから、囚人が馬で行くことになります。その馬の口は非人がとり、介添(かいぞえ)二人がつき添い、次に捕物道具を携えた「谷の者」。これにつづいて、南北与力の検使正副二人が、陣笠、野羽織で騎馬を進めます。これにしたがう同心四人。囚人取扱いの非人らが、二列になって、つづきます。非人たちは、いずれも、白衣、脚絆で、六尺棒を小脇にかかえて居ります。
 まことに、ものものしく、威厳のある行列でございます。
 引きまわしの順路は、小伝馬町牢屋敷の裏門を出て、小船町、荒和布(あらめ)橋、江戸橋を渡り、海賊橋から八丁堀、北紺屋町、南伝馬町を巡って、京橋に至り、芝車町(札の辻)からひきかえして、赤羽橋を渡り、飯倉、溜池、赤坂に出て、お城をぐるりと一周いたします。四谷、市ヶ谷、牛込、小石川の各御門の前を通りすぎて、水戸様(後楽園)わきより、壱岐坂を登り、本郷から上野広小路に出て、上野山下より浅草雷門、浅草今戸に至って、ひきかえし、蔵前から、牢屋敷裏門に戻るのでございます。
 陽がさしそめた頃に出て、戻りついた時には、秋などは、昏(く)れかかって居ります。
 同じ引きまわしでも、囚人それぞれによって、様子がちがって参ります。
 悪事を積み重ねて、十度生れかわっても罪ほろぼしのできぬ極道者などは、娑婆(しゃば)の見おさめと、引きまわしをかえって、よろこび、俗に曳(ひ)かれ者の小唄と申しますが、鼻唄などをうたって居ります。
 図太い奴は、見物の女子衆を、からかったりなどいたします。
 今日一日の生命の者でございますから、たいていのわがままは、きいてやることになります。店先にならんでいるものを見て、「あれが食いたい」と申せば、それを取って、与えました。酒だけは、酔(よ)ってあばれることを警戒して、与えませんでしたが、見物衆の中で施す者があれば、ひと口ぐらいは、飲ませました。
 身内の者が駆け寄れば、お役人衆は、馬を停めてやり、泪(なみだ)の別れもさせてやったものでございます。尤も、死罪引きまわしの恥をさらして居るのでございますから、身内の者が声をかけて寄って来ることなど、滅多(めった)には見られぬ光景でございました。
 前話が、たいそう長くなりました。
 左様、――もう、三十年も、遠いむかしのことになりまする。
 物見高いは江戸の常、と申しますが、この日ばかりは、引きまわし沿道の両脇は、びっしりと隙間(すきま)のない人垣がつくられたと申しても、過言ではありませぬ。
 囚人は、女で、見目美しく、しかも、かなり名の通った俳人だったのでございます。
 千人於梅(おうめ)――この時、三十六歳。うば桜でございましたが、どうして、遠目などでは、二十三四にしか見えない若さでございました。
 殊に、黒髪の生えぎわが、絵に描いたような富士額(ふじびたい)で、いまもなお、その美しさが、ありありと、思い泛びまする。
 そのゆたかな黒髪を、手一束に切って肩に散らし、白綾の小袖も清らかに、高小手に縛られているのが、いたいたしいばかりでございました。
 斑馬(まだらめ)の背に、横掛けして、足くびもまた縄でくくられて居りましたが、無情の風になぶられて、裾がひるがえり、燃えるような緋の下裳(したも)がちらちらとのぞくさまに、男どもは、思わず息を詰めたことでありました。
 頬(ほほ)が、ほんのりと紅潮していたのは、衆人の目にさらされる恥に堪えるためばかりではなく、引き添いの非人が、時折り柄杓(ひしゃく)で呉れるのが、実は、酒だったからでございます。
 於梅が、それを所望したというよりも、検分役の与力殿の心づかいであったろうか、と察しられました。
 春の淡雪(あわゆき)が、桜の花びらのように、舞っている寒い日だったのでございます。
 死罪人の引きまわしというものは、ご想像の通り、陰惨な行事でございます。二刻(ふたとき)のあとには、打首か、磔(はりつけ)か、むごい断罪の課せられる囚人が、江戸市中すべての人の面前にさらされて、嫌悪の視線と嘲罵(ちょうば)の声をあびせられるのでございます。脳中が狂った極悪人でもない限り、顔を擡(もた)げて、平然としていられる段ではありませぬ。わたくしの記憶の中にある最も極悪な――実の母を犯して、締め殺した男でさえ、始終顔を伏せていたことでございます。
 ところが――。
 あろうことか、かよわい女性(にょしょう)である於梅が、降りかかる雪華(せっか)の中で、みじんの悔いも怖れもなげに、すずやかな眸子(ひとみ)を宙に置いて、頭を立てていたのでございます。
 沿道に蝟集(いしゅう)した群衆の中で、この妖(あや)しいまでの艶冶(えんや)な姿を、瞶(みつ)めて、万感胸にせまらせている男が、百人や二百人ではなかったことを、わたくしは、申上げたいのでございます。

……「千人於梅(おうめ)」冒頭より

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