「毒蛇」

レックス・スタウト/佐倉潤吾訳

ドットブック版 290KB/テキストファイル 214B

600円

史上最も風変わりな探偵…それが本書に登場のネロ・ウルフである。1日にビールを6リットルちかくも飲み、フランス料理の専門シェフを雇うくらいグルメで大食、おかげでぶくぶくに太って、大好きな蘭を1万株も栽培する屋上に行くのも専用エレベーターの世話になる。つまり自分では動けず、完璧な安楽椅子探偵。指示を仰いで動き回るのは有能な助手のアーチーだ。本書は47作にものぼるシリーズ処女作で、むろん最高の出来という折り紙つきの作品。そもそも本書巻頭で、見知らぬイタリア女の不意の来訪を受けたのは、49の銘柄のビールを一本ずつ賞味しているときであった!

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

立ち読みフロア
 フェアモント・ナショナル銀行事件の取り分も先週すっかり集めてしまって、その日は、ぼくには使いにでも行く以外にすることはなかったし、ウルフときたら、要(い)るとなったらぼくに靴墨(くつずみ)一罐買わせに、わざわざダウンタウンのマレー・ストリートまで走らせるくらい平気なのに、どういうわけか、ぼくにビールを買いに出さなかった。ビールを買いにやらされたのは、フリッツだった。昼食がすむとすぐ、フリッツが皿も洗わないうちに、ウルフはベルを鳴らして、彼を台所から呼んだ。フリッツは命令を受けると、外に出て、いつもぼくたちが家の前に停めておく自動車に乗った。一時間後には、彼は車の後ろの席に、瓶をいっぱいつめた籠(かご)を高く積みあげて帰ってきた。ウルフは事務室――ウルフとぼくはこう呼ぶのだが、フリッツは書斎と呼んだ――にいたし、ぼくは前の部屋で不得手な銃創(じゅうそう)の本を読んでいたが、窓ごしに外を見たら、フリッツが歩道のふち石のところで車を停めたのが見えた。ちょっと歩いてみるのに、いい口実ができたと思って、外に出てフリッツが籠を車からおろして台所に運ぶのを手伝って、台所の戸棚に瓶をしまいこみはじめたら、ベルが鳴った。フリッツについて、ぼくは事務室に入った。
 ウルフは頭を上げた。こんなことをわざわざいうのは、彼の頭たるや、とても大きくて、それを上げるというのは大仕事のように思えるからだ。本当は見たところより、もっと大きいのだろう。頭以外のところが、途方もなく大きいもんだから、その上に乗っている頭は、そのくらいに大きくなければ、まったく人の目につくまい。
「ビールはどこにおいた?」
「台所でございます。右手の下の戸棚でして」
「ここへほしい。冷えているかな。それから栓(せん)抜きとコップを二つ」
「だいたい冷えております。承知いたしました」
 ぼくはニヤッと笑って、椅子に腰をおろし、ウルフが紙を小さく丸く切って、それを机の上の吸取紙挟(はさ)みの上であちこち動かしているのを、いったい何のつもりかと、いぶかりながら見ていた。フリッツはビールを盆の上に一度に六本のせて、運びはじめた。三度運んできたところで、ウルフが机の瓶の行列を眺め、フリッツがドアからまた出ていくのを見て、ぼくはまたニヤッと笑った。もう二回、いっぱいのせた盆がきた。そこでウルフはフリッツの行進をとめた。
「フリッツ。いったい、いつになれば済むというのかね」
「もうすぐでございます。あと十九本ありますので。全部で四十九本でして」
「馬鹿な。いやこれは失敬、だが、たしかに馬鹿げている」
「さようでございます。あなたのおおせは、手に入る銘柄は何でも一本ずつということで。店を少なくも十二軒は回ってまいりました」
「よしよし。持ってきなさい。それから塩味だけのビスケットと。全部飲んでやらないといかんな、不公平になるから」
 ウルフにいわれて、ぼくが椅子を彼の机のそばに引き寄せて、瓶をあけはじめたら、彼は自分の考えを説明した。彼はいままで何年も密造ビールを樽(たる)で買って、地下室の冷蔵庫にいれておいたんだが、合法的な三・二度のもので、口に合うのが見つかれば、密造ビールをやめる決心をしたというんだ。一日六クォーツは不必要だし、時間もかかりすぎるから、これから五クォーツに制限する決心もしたんだそうだ。ぼくはそんなこと信用できなかったから、それを聞いてニヤッと笑った。フリッツが一日中くたくたになって片づけないと、ここが空瓶でどんなに散らかるだろうと思ったら、またニヤッと笑えた。ぼくは前に何度も彼にいったことを、また言ってやった。ビールというものは人間の脳を鈍くするんだが、彼の体の中には、一日六クォーツものビールが小川のように流れていながら、彼の脳がこの国で誰も及ばないほど早く鋭く働くことができるのは、どうも合点がいかない、といってやった。彼の答えは、これも前から聞いていることだが、働くのは彼の脳ではなくて、もっと低度の神経中枢だ、というんだ。それから、ぼくが彼の試飲用に五本目を開けてやった時、彼はつづけて――これも初めてではないが――ぼくが真面目にこんなお世辞をいったなら、ぼくは馬鹿だし、わざといったなら悪意だから、ぼくのお世辞を受け入れれば、ぼくを侮辱することになるから、受け入れない、といった。
 彼は五番目の銘柄を味わって、舌鼓(したつづみ)を打って、グラスを持ちあげて、琥珀(こはく)の色を明りにかざして見た。「これは愉快な驚きだ、アーチー。こうとは思わなかった。もちろんこれは、私が悲観主義者であるおかげだ。悲観主義者が得るものは、愉快な驚きだけであり、楽観主義者が得るものは、不愉快な驚きだけだ。今まで飲んだところでは、下水のようなものは一本もない。君も見たろうが、フリッツがラベルに値段を書いておいたから、安いのから飲みはじめてみたのだがね。それはおよし、次はこれだ」
 台所からかすかなブザーの音がして、正面ドアに客が来たのを知らせたのは、その瞬間だった。そしてこのブザーから、この物語が始まった。しかしその時は、別に何でもなく、ただダーキンが何か頼みに来ただけだと思った。
 ダーキンはどこもまったく丈夫そうだった。あんなに体じゅうたいていのところが太っていて、よく尾行ができるもんだと、ぼくは舌を捲(ま)いている。尾行専門のやつというものは間抜けなもんだが、優秀な尾行というものは、ただ食いついて離れないというだけではなくて、はるかにそれ以上のものだ。そしてフレッド・ダーキンは優秀だ。

……巻頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***