「どもりの主教」

E・S・ガードナー/田中西二郎訳

ドットブック版 202KB/テキストファイル 160KB

500円

「どもり」の主教がペリー・メイスンの事務所にあらわれ、なんと22年まえの重過失致死事件の弁護を引き受けてもらえないかと申し出た。メイスンはむろん、二つ返事で引き受け、さっそく私立探偵のドレイクを依頼人の尾行につけた。案じたとおり、ホテルに帰った主教は、自室で赤毛の若い女の待ち伏せにあい、頭をなぐられて気を失っていた。豪雨の夜のロサンゼルス埠頭で、アクションとサスペンスは最大の見せ場に。シリーズの代表作の一つ。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かして、法廷場面とハードボイルド・タッチで有名なペリイ・メイスン・シリーズを書き、一躍人気作家となった。

立ち読みフロア
 メイスン法律事務所の所長室の入口まで来て、入ろうか入るまいかとためらうように足をとめた人物に、ペリイ・メイスンの視線がきびしく向けられた。
「どうぞ、主教《ビショップ》さん」メイスンが言った。
 黒ラシャのだぶだぶな牧師服を着た、ズングリした体格のその人は、軽く会釈をして、メイスンの指さす椅子の方へ進んだ。幅の広いカラーの白さが目立って、日焼けのした顔に灰色の涼しい眼が光っている。頑丈な短い二本の脚が、だいぶ履きふるされた黒靴で、元気よく進んで来たが、それを見ていたメイスンは、この人なら、そのいかつい胴体を電気椅子へ向って運ぶときにも、この脚で、同じシッカリした足どりで歩くだろう、と思った。
 主教《ビショップ》は腰をおろして、弁護士と向き合った。
「煙草はいかがです?」ケースをさしだしながらメイスンがきいた。
 主教は巻煙草のほうへ手をのばしかけたが、途中でその手をとめて言った、「さっきから一時間ほど巻煙草をすうていました。これじゃと、一本すうのに、フ、フ、二口《ふたくち》ですわい」唇がもつれると、主教は口をつぐみ、二度ほどゆっくり呼吸して、落着きをとりもどそうとする様子だった。そのあとで、ピアニストが間違えて指をすべらせたのを埋め合わせるために殊更《ことさら》つよく鍵盤を叩くように、声に力をこめて言葉をついだ。「失礼して、自分のパイプをつけさせていただきましょうかな」
「さあ、さあ、どうぞ」とメイスンは答え、客がポケットからやおら取り出した太くて短いパイプの感じが、持主の感じとそっくりだなと観察していた。
「秘書から聞きました。オーストラリアのシドニーから見えられたそうですな。お名前はウイリアム・マロリー主教さん、過失致死事件でご相談がおありだというのですな」客の話しやすいように、弁護士はテキパキと切り出した。
 マロリー主教はうなずいて、ポケットから革の袋をだし、香りのいい刻み煙草を、よく磨きのかかったブライアの火皿に詰めこみ、彎曲した柄の端をガッチリ歯と歯でくわえてから、マッチをすった。その手もとをみまもるメイスンには、主教が両手でマッチの火を蓋《おお》ったのが、指のふるえを防ぐためなのか、それとも癖で機械的に風を防ぐ所作をしただけなのか、どちらだろうと考えたが判定がつかなかった。
 ゆらめく光に照らされた広い額、頬骨が高いので平たい感じのする顔、一徹そうな顎の形などを、眼を細めて、メイスンはじっくりと観察した。
「うかがいましょう」彼はうながした。
 マロリー主教は、五、六回、小さな煙の雲を吐いた。不安そうな椅子のなかで腰をもじもじさせるようなタイプとはちがうが、内心の落着いていないことはそのあらゆる挙動が示していた。やっと口を開いた。
「なにぶん、法律を習ったのは昔のことで、だいぶ怪しくなっとりましてな、その、控訴の時効についてお訊きしたいのです――カ、カ、過失致死罪の」
 どもったのはこれが二度目で、パイプの柄はガッチリ歯と歯で締めつけられていた。その歯のあいだからパッパッと吐きだされる煙が、神経のいらだちと、うまくしゃべれないもどかしさとを語っていた。
 メイスンはおもむろに答えた。「この州には出訴期限法というものがありましてね。殺人罪と公金横領罪または公文書偽造罪とを除くすべての重罪は、犯罪が行われてから三年以内に起訴されなくてはなりません」
「犯人が発見できなかったとしますと?」マロリー主教は煙草の煙の青い薄霞のなかから、灰色の眼で熱心に弁護士の顔をうかがいながら訊ねた。
「被告が州外にいる場合は、州内にいない期間は計算されません」
 主教は急に視線をそらせたが、それより早くその眼にうかんだ失望の表情は包む由もなかった。
 メイスンは楽々と、流暢に話しつづける――手術の前に患者の気持ちを楽にしてやろうとする医者の調子に、それは似ていた。「つまりですな、一定の年数を経ると、被告が自分の利益になるような証拠をもちだすことがむずかしくなります。検察当局がカビの生えた犯罪事件で目撃者の証言を手に入れることがむずかしいのと、ちょうど同じ理屈です。そういうわけで、さっきお話した最も重大な犯罪以外のすべての犯罪について、法律は期限をつけているのです。それは法律上の出訴期限ですが、一方、実務上の期限というものもあります。ですから、ある犯罪を、地方検事が、法規上は起訴して差し支えない場合であっても、年数がたってしまって、起訴をためらわざるを得ないということもあるんです」
 しばらく沈黙がつづいた。主教は頭のなかにある考えを、どんな言葉で装わせようかと、手間どっているらしい。話を本筋へもってゆくために、メイスンは笑いながら言った。「要するにですね、主教《ビショップ》さん、依頼者が弁護士に相談するのは、いわば患者が医者にかかるのと同じことですよ。抽象的な質問で遠まわしに探りをお入れにならんで、頭のなかにあることを、そのまま話してごらんになったらどうですかな」
 マロリー主教はひどく意気ごんで言いだした。「するとあなたは、その犯罪が二十二年前に行われたものだったら、被告がこの州内にいなかった場合であっても、地方検事はキ、キ、キ、起訴しないだろうと言われるんですか?」――今度は、はやくこの質問に対する答えをきこうと意気ごんでいるために、自分の発音障害をきまりわるがる様子は少しも見せなかった。メイスンは答えた。
「あなたの方では過失致死だと考えても、地方検事のほうでは殺人だと考えるかも《ヽヽ》知れませんね」

 ……冒頭より

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