「ドン・ジュアン」

モリエール/金川光夫訳

ドットブック版 100KB/テキストファイル 51KB

400円

女たらしの不信心者が、さんざん悪いことをしたあげく、最後には神の怒りにふれて、雷に打たれて死ぬ……このドン・ジュアン伝説を下敷きにして、徹底した快楽の追求者、無神論者、偽善者としての新しい性格を盛り込んで作り上げられ、大当たりをとったモリエールの快作。

モリエール(1622〜73)フランスの劇作家・俳優。パリ生まれ。オルレアン大学で法学士になるが、劇団を結成して俳優の道をえらぶ。破産して投獄され、その後十年あまりは旅回り役者。58年パリにもどってルイ14世の御前公演で大成功、以後数々の名作喜劇・笑劇を書き、フランス古典劇の完成者のひとりとなった。代表作「才女きどり」「タルチュフ」「ドン・ジュアン」「人間ぎらい」「守銭奴」「町人貴族」「女学者」など。

立ち読みフロア
【スガナレル】 (煙草入れを手に持って)アリストテレスや哲学がなんと言おうと、煙草にかなうものは、ま、あるまいな。〔煙草はこれより約百年前、スペイン人によりヨーロッパへもたらされた。しかしその使用の是非については、当時もまださかんに論議が交わされていた。フランスでは、ルイ十三世が煙草の販売を禁止したし、聖体秘蹟協会はその使用に反対していた。コルベールが煙草の専売制を確立したのは「ドン・ジュアン」の初演から九年後の一六七四年のこと。したがってこの台詞(せりふ)には、時事問題的な興味とともに諷刺の意図もあったと考えられる〕紳士がたは、こいつがたまらなくお好きだし、煙草なしで暮らす手合いなんぞは、生きる値打ちもないってものよ。そもそも煙草の御利益(ごりやく)は、人間のあたまを楽しませ、これを清めるばかりでなく、魂に働きかけて品性を高めるんだ。だからみんながこいつを喫(す)って、紳士の道を学ぶってわけさ。な、おい、そうは思わんか、一服つけたらそのとたん、誰にでも愛想がよくなるし、行く先ざきでまわりの人に、煙草をすすめちゃ喜んでいるだろう? 人から頼まれるまでもなく、前もって人ののぞみをかなえてやれる。まったく、煙草というものは、喫(の)めば誰にでも名誉心ができるし、品性も高まるってものなのさ。さて、と、煙草談義はこれくらいにして、さっきの話にもどろうじゃないか。するってえと、ギュスマン、おまえのご主人、ドンヌ・エルヴィールの奥さまは、われわれが旅に出たのにびっくりして、あとを追っかけて来た、で、うちの旦那にえらくご執心で、ここまで探しに来なけりゃ、生きた心地もなかった、と、まあ、こういうわけなんだな。おれとおまえのあいだだから、おれの考えを聞かせてやろうか? 奥さまのお慕いになるお気持は、折角だが、とても報いられそうにはないね。この町まで訪ねて来たって、ことはうまくおさまるまいし、奥さまもおまえもどうやら無駄足を踏んだんじゃあるまいか。
【ギュスマン】 で、そのわけは? な、スガナレル、頼むよ、話してくれよ、なんでまたそんな縁起の悪いことを言って心配させるんだ? ご主人さまがこのことで、なにか打ち明け話をなすったのかい? 愛想がつきて旅に出られたっていうのかい?
【スガナレル】 いいや、そんなことはないけどさ、これまでに見て来たことから、事のなりゆきはほぼ察しがつくんだ。旦那からはまだなんにも聞いちゃいないが、いずれそうなることは請け合ってもいいぜ。ひょっとしたらおれの読みちがいかも知れん。だけどこの問題についちゃ、おれの経験が結構ものを言うんじゃないかな。
【ギュスマン】 なんだって? あのだしぬけの旅立ちは、ドン・ジュアンさまの浮気心のせいだって? いったい、エルヴィール奥さまのまごころを、こうまで踏みにじっていいっていうのかい?
【スガナレル】 いや、なに、うちの旦那はまだお若いし、それに、とてもそんな気に……
【ギュスマン】 ご身分の高いおかたが、あんな浅ましいことをなすっていいのかい?
【スガナレル】 やれやれ、ご身分かよ! 結構な理窟だて。そんなもんで旦那があのほうを控えてくださるんならね。
【ギュスマン】 それにしたってあのかたは、結婚という神聖な絆で縛られていなさるはずだろう。
【スガナレル】 おいおい、ギュスマン、いったいドン・ジュアンさまがどんな人間だか、おまえにはまるっきり分っちゃいないんだな。
【ギュスマン】 いや、まったく、おれにはさっぱり分らん、こんな不実を働くなんて、いったいどんな人間なんだろう。あれほどまでに惚れこんで、じりじりやきもき、お世辞をたっぷりふりまいて、愛を誓い、ため息をつき、涙を流し、燃える思いを書き送り、殺し文句は並べる、約束ごとは繰り返す、恋い焦(こが)れて無我夢中、のぼせあがって血迷って、あげくのはては修道院の神聖な柵まで乗り越えて、エルヴィールさまをひっさらってしまった。そこだて、分らんのは、あれほどまでにしておきながら、よくもまあ約束が破れたもんだ。
【スガナレル】 おれにはまんざら分らんでもないな、おまえだってうちの旦那を知ってたら、それぐらい朝飯前だってことがすぐ分るさ。なにもエルヴィールさまに対して、旦那が心変わりしたっていうんじゃないんだ。おれだってそこまでは確(しか)と分からん。だって、知っての通り、おれは旦那の言いつけで、一足先に旅に出て、旦那がお着きになってからも、まだお目通りしてないんだ。だけど用心にこしたことはない、ここだけの話だ〔スガナレルはここでinter nosというラテン語を用いている〕、教えておこう。おれのご主人ドン・ジュアンさまは、開闢(かいびゃく)以来の大悪党、極悪非道の犬畜生、悪魔、トルコ人〔トルコ人は異教徒であることから、しばしば、冷酷な人、残忍な人など、さまざまな悪い意味に用いられる。ここでは不信人者の意であろう〕、異端者なんだ。天国も地獄も化け物も、信じるようなおかたじゃない。けだもの同然にこの世を渡る、エピキュロスの豚〔もっぱら官能の歓びに耽(ふけ)る人をさす〕、正真正銘の放蕩者(サルダナバール)だ。〔サルダナバールはアッシリアの王、放蕩のかぎりをつくしたと伝えられる。これより、放縦な生活を送る王侯貴族をも指すようになった〕どんな忠告にも耳をかさず、われわれの信じていることなんか、たわごと扱いさ。おまえのご主人さまと結婚したという話だが、色恋のためとあらば、なんだってやりかねないぜ。奥さまがおられても、おまえとだって、犬とだって、猫とだって結婚なさるさ。結婚なんか、旦那を縛るのに、なんの役にも立ちゃしないよ。そんなものは別嬪(べっぴん)をとらえるための罠なのさ。それに結婚相手に選り好みはなさらん。奥がた、姫ぎみ、町娘、田舎娘、お熱いのも冷たいのもお構いなしだ。あっちこっちで結婚した女の名前を数えあげたら、それこそ日が暮れちまうよ。話を聞いてびっくりかい、顔の色まで変わったぜ。でもこれなんかほんの小手調べ、肖像(にすがた)を描くとなったら、もっと筆を加えなくちゃあ。だけどいつかは天罰がくだるに違いないね。あんな旦那に仕えるくらいなら、悪魔の手下にでもなったほうがずっとましだよ。あんまり恐ろしいことばかり見せつけられるんで、どこかおれの知らないところへ行っちまえばいいと思うほどさ。それにしても性(たち)の悪いお殿さまは手がつけられん。いやいやながらも忠義は尽くさにゃならん、おっかないばっかりに仕事熱心のふりをする。心の底じゃ憎んでも、拍手喝采(かっさい)ほめねばならん。おや、うちの旦那がこのお邸へ散歩に見えた。別れるとしようぜ。だが、ちょっと耳を貸しな。こんなふうにおまえには、洗いざらい、ぶちまけたものの、どうも明かすのが早すぎたようだ。で、もし、旦那の耳になにか入ったとしたら、おまえが嘘八百並べたんだってことにしておくぜ。


……第一幕 第一景より


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