「ドアは語る」

M・R・ラインハート/村崎敏郎訳

ドットブック版 325KB/テキストファイル 240KB

700円

錆びた真鍮(しんちゅう)のノブが付いたペンキ塗りの木製ドアが見ていた殺人犯の姿! 巧みに組み立てられた計画が、最後にドアひとつのために粉砕されようとは。事件後すでに何ヶ月も過ぎて、無数の手がノブに触れた。ドアのペンキも塗り直してあった…だが。

M・R・ラインハート(1876〜1958)ピッツバーグ生まれのアメリカの女性作家で、フルネームはメアリー・ロバーツ・ラインハート。ミシンの行商人の家に生まれ、看護婦養成学校卒。苦しい家計を助けるためペンをとりはじめ、1908年に発表した「螺旋階段」で一躍人気作家となった。「アメリカのクリスティ」ともよばれるサスペンスの第一人者。

立ち読みフロア
 私は脚をくじいたので、この二週間来の毎日は三つに区分されている。そのうち二つはこの図書室で起こる。一つは毎朝十時に看護婦が来て私の脚から無理に苦痛をしぼり出そうとするような、たまらない手当をする時だし、もう一つは私が独りで考えごとをする時だ。
 でも私の考えは混沌としてはっきりしない。家の中が静かすぎる。私は、いまは自分の用事でいそがしがっているジュディが恋しいし、どうやらこの数か月間の興奮が恋しいらしい。人間は、犯罪のことに頭を向けている最中は、昨夜の残り肉で作ったお昼のビーフコロッケに興味を持ちにくい。つまり、それがいま私の考えていることだ、犯罪……それも大犯罪。
 私は殺人のことを考えている。殺人犯人を殺しに追いこむ究極の衝動は何か しら? 動機じゃない。動機なら理解できる。激しい情熱、恐怖、嫉妬、復讐などから人を殺す場合があるのはすくなくとも想像できる。それからまた麻薬中毒者か精神異常者のような、まともでない人間が犯す殺人もある。もちろん、その場合でも動機はある……けれどそれは、ゆがんだ頭に隠されているかもしれない。そして私どもの場合のように、隠されてはいるが完全に現実的な動機があって、それを発見されないように極度に用心していた一連の犯罪もある。
 でも私が考えているのは、動機よりもっと根本的な何かだ。
 そういう人殺しの最後の行動の裏にひそんでいるのは何かしら?
 その時まで彼は人類の一人だった。一瞬にして彼は同胞と縁を切り、孤立したグループ――人命を奪った仲間の一人になってしまう。
 そこには人命そのものを、生命の価値や重要性を、深く軽蔑する気持があるのかしら? それとも殺そうとする本能――法律が本能を抑制しなかった古代からよみがえった先祖伝来の記憶――のほうが思考力より強いのかしら? 殺人は自然の衝動で、私どもはだれでも人殺しになりかねないから、人類の絶滅を防ぐために人命神聖説が考え出されたのかしら? だからいよいよのどたん場になると、埋もれていたこの遺伝的本能が勝ち誇ったように表面に浮かびあがって、ナイフをつかんでいる手を鋼鉄のように強くし、拳銃のねらいをしっかりさせ、毒殺者の顔に微笑を帯びさせるのかしら?
 何かそういうことがあるに違いない。一つだけ私どもは知っている……一度人を殺したら、それまでの抑制作用が消えてしまう。その男はおたがいに顔も知らない異種族のグループに入って、あくまで世間に反抗する。
 それから先は孤独になる。
 でも私には何一つ答が見つからなかった。この事件をふりかえって、私はどこかに調子の狂ったところか、本能的な気の弱りか、後悔があったかしらと探してみた。でも何一つ見つからなかった。いまではわかっているとおり、全体の殺人計画がまさに崩壊しようとしたとき、恐ろしい危険な瞬間が幾度もあった。でも、もしその時あわてふためいたとしても、そんな証拠は残っていない。そういう緊急の場合はいつも悪魔のように巧妙かつ狡猾な手ぎわで処理されたし、その狡猾さは、さらにそれ以上を考えて、偶然発見されそうなあらゆる場合にあらかじめ備えていた。
 そこまで計画し、そこまであらゆる手掛りを隠すのに、どんなに長くかかったかは想像するだけだ……あれこれと細心に観測し、水ももらさぬ犯罪計画を立て、容疑をよそに向けようと慎重にたくらんであった。
 けれど、終わり近くにはほんとうの満足と、かりそめの安心感で、もみ手をしながら、ある程度得意になっていたに違いない。
 するとその時ふいに、それほど注意深く組み立てた仕組が全部粉砕された。犯人には奇妙で神秘的でにがにがしかったに違いない。あれほどあらゆる場合に備えてあったのに、それが最後にドア一つ――ありふれた錆(さ)びた真鍮のノブが付いているペンキ塗りの木製ドア――のために粉砕されようとは。
 すでに幾月も過ぎていた。そのあいだに無数の手がそのノブにふれた。ドアそのものも塗り直してあった。それなのにそのドアがこの謎を解いて、犯罪記録が証明するとおりに、悪魔のような狡猾な殺人犯人を破滅させた。

……冒頭より


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