「ダブリン市民」

ジェイムズ・ジョイス/安藤一郎訳

ドットブック版 426KB/テキストファイル 187KB

500円

「私の意図は自分の郷土のモラルの歴史の一章を書くことでした。私がその場面にダブリンをえらんだのも、この都会が私には麻痺の中心に思われたからです。私はそれを無関心な世人に、この都会がもつすがたを子供時代、青春期、成熟期、公生活の四つの面のもとに示そうと試みました。作品はこの順序で配列されています」…この自分の短編集に寄せたジョイスの言葉がすべてを物語る。15編からなるジョイス文学の出発点。

ジェームズ・ジョイス(1882〜1941)蒸留所経営に失敗してさまざまな職業を次々と手がけた父と、熱烈なカトリック信者の母とのあいだにダブリン(アイルランド)で生まれる。同地のユニヴァーシティ・カレッジを卒業後、パリへ。貧しい暮らしを1年送ったあと母危篤の知らせを受けて戻るが、母の死後の04年、再び故郷を離れ、二度と戻ることなくイタリア、フランス、スイスなどで生涯を送った。学生時代から抒情詩を書き作家をめざしたが、最初の小説「ダブリン人」がでたのは14年、ついで16年「若き日の芸術家の肖像」を発表した。22年には「ユリシーズ」が完成、だが検閲にかかってフランスでしか出版できなかった。23年に書き始めた最後の大作「フィネンガンズ・ウェイク」が完成したのは39年であった。

立ち読みフロア
 今度はもうだめだろう、これで三度目の卒中だったから。毎晩のように、私はあの家の前を通って(ちょうど休暇だったので)、あかりのついた四角い窓を注意ぶかくながめた。くる晩もくる晩もそこは相変わらず、淡く一様に明るんでいるのを見た。もし亡(な)くなったのなら、暗くかげった窓覆(まどおお)いに蝋燭(ろうそく)の灯がうつるだろう、と私は思っていた。なぜというに、死人の頭のところには必ず二本の蝋燭を立てるということを知っていたから。彼はよく私に言ったものだ――「わしはもう長くはあるまい」と、だが、私はそれをいいかげんな言いぐさとしか考えていなかった。いまそのことばが嘘でないことがわかった。毎晩窓を仰ぎながら、私はひとり小さな声で、「中風(パラリシス)」と言ってみるのだった。これは私の耳に、ユークリッド幾何学のノウモン〔平行四辺形の一角を含んでその相似形を切り取った残りの形〕ということばや、『カトリック要理』の中の僧職売買(シモニー)〔僧職における昇進、禄(ろく)、利得を売買する行為〕ということばとおなじように、いつも奇妙にひびくのであった。けれども、いまは何か罪業(ざいごう)の深い者の名前のようにひびいてきた。で、私はこわくてたまらないのだが、しかもなお、それに近よってその恐ろしい働きを見とどけたいと思うのだった。
 夕飯に階下へ降りてくると、コッター爺(じい)さんが煖炉(だんろ)のところでたばこをふかしていた。伯母が私のオートミールをすくいとっているとき、彼は何か前の話にもどるというふうに言った――
「いや、あっしはこうとはっきり言うわけでねえが……あの人にはどうもちょっと変った……うす気味悪いところがあってな、あっしにいわせると、つまり……」
 彼はここでパイプをスパスパふかしだした、いかにも自分の意見を頭の中でまとめているらしいようすだった。いやなばか爺め! はじめ彼を知ったころは、下等酒精や蒸溜器(じょうりゅうき)の螺旋管(らせんかん)の話をしてくれて、すこしはおもしろかったのだが、やがて私は彼という人間にも、その蒸溜酒製造所に関する際限ない話にも飽きてしまった。
「あっしには一つの考えがあるんでしてね」と彼は言った、「あれは、まあ……奇人の部類にはいると思うが……さあ、何といったらいいか……」
 彼は自分の考えというのは述べないで、またパイプをふかしだした。伯父は私がにらむようにしているのを見て、こう言った――
「ねえ、おまえの仲よしが死んじゃったら、さぞがっかりするだろうな」
「だあれ?」私はきいた。
「フリン神父さんさ」
「神父さん、死んだの?」
「コッターさんがいま言われたんだがね。さっき、あの家のそばを通ってきたんだそうだよ」
 私は自分が注視の的(まと)になっているのを知った、そこで、そういう知らせにも動じないように見せて、食事を続けた。伯父はコッター爺さんに説明していた――
「この子とあの人は大の仲よしだったのさ。老人はいろいろ教えてくれたんでね、この子にたいへん望みをかけていたそうだが」
「神さまがあのかたの魂にお恵みを与えなさいますように」と伯母が信心ぶかく言った。
 コッター爺さんはちょっと私の方を見ていた。その小さい数珠玉(じゅずだま)のような、黒い眼がこっちをじろじろ探っているのを感じたが、私は、皿から顔を上げるといった、彼の思う壼(つぼ)にはまるようなようすはしなかった。彼はまたパイプをくわえて、最後に火格子(ひごうし)へ荒々しく唾を吐いた。


……「姉妹」冒頭


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