「オランダ靴の秘密」

エラリー・クイーン/二宮佳景訳

ドットブック版 181KB/テキストファイル 179KB

600円

病院の階段から転落して重態のドーン夫人は、急いで手術室に運ばれた。たまたま友人の医師をたずねて病院に来ていたエラリーは、その手術を見学することになった。だが白布をめくると、そこにあったのは夫人の絞殺死体だった! そして外科医が第二の犠牲者に…「国名シリーズ」第3作。

エラリー・クイーン
エラリー・クイーンは、従兄どうしのアメリカ人作家フレデリック・ダネイ(1905〜82)とマンフレッド・B・リー(1905〜71)の共同のペンネーム。二人は同年、ブルックリンに生まれ、典型的なニューヨーカーだった。1929年、クイーン警視の息子エラリー・クイーンが登場する『ローマ劇場毒殺事件』でデビュー、その後、全10巻からなる「国名シリーズ」、『X』『Y』『Z』『最後の悲劇』からなる4部作の「悲劇シリーズ」など、最高の傑作を生み、アメリカ・ミステリー界を代表する作家となった。のちには「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)を創刊し、編集者・アンソロジストとしても活躍した。

立ち読みフロア

 リチャード・クイーン警部の思いやりは、彼の普段の機敏さとか、実際的で老練なやり方とは、およそ似合わしからぬものだったが、犯罪学の一般的問題については、おそろしく教訓的な意見を述べる癖があった。こうした大学教授めいた格言を、自分の息子であり、犯罪捜査上の協力者であるエラリー・クイーンに向って、習慣的に口にしたが、それは居間の煖炉の前で、食事をする時にかぎっていた。その居間には、ドジュナという家事の手助けをしている幽霊みたいなジプシーの少年の、すべるような影のほかには、誰も入ってくる者はなかった。
「最初の五分間が、もっとも大切だよ」老警部は厳しい口調でいう。「覚えておきなさい」それは彼の気に入りの言葉なのだ。「最初の五分間で、厄介な手数が省けるもんだよ」
 そして、少年時代から探偵についての特別教育で育てられてきたエラリーは、いつもパイプを不平そうに鳴らして、煖炉の火を見詰めながら、一体探偵が犯行後三百秒以内に、犯罪現場に行かれるなんて運のいいことは、どれだけあるものだろうかと疑うのだ。
 そこで彼が、自分の疑いを口に出していうと、いつも老警部は悲しげにうなずいて同意する――「そうだよ、そんなに運のいいことなんて、滅多にありゃしないさ。警察の者が現場に到着した時には、手がかりになる痕跡は、冷えて、とても冷たくなっているんだ。その時は、冷酷な運命の怠慢さを償うために、できるだけのことをするより仕方がないよ。ドジュナ、わしの嗅ぎ煙草を持ってきてくれ!……」
 エラリー・クイーンは、決定論者でも、実証主義者でも、現実主義者でもなければ、運命論者でもなかった。主義や学説に対する彼の唯一の妥協点は、思想史を通じて多くの名と成果をあらわしてきたところの、理性の正しさに対する不動の信念にあった。この点において彼は、クイーン警部の根本的な職業意識と、大きな距たりがあった。彼は警察の情報制度というものを、独創的な思考の尊厳を傷つけるものとして蔑《さげす》んでいた。彼は警察の探偵方法を、その不器用なやり方と共に、はなはだしく軽蔑していた。――その欠点とは、厄介な規則ずくめの組織のせいなのである。「僕はこのことについては、カントに共鳴するね」と彼はよくいっていた。「純粋理性は、混濁した人間社会の最高の善である。一方に考え出す心があれば、他方に測り知ろうとする心がある……」
 これが最も単純に表現した彼の哲学だった。彼はこの自分の信念を、アビゲイル・ドーン殺人事件の取調べ中に、もう少しで放棄するところだった。この事件こそ彼のはなはだしく非妥協的だった知的経歴において、おそらく疑問にぶつかった最初のことだったろう。

……「一 手術」より

購入手続きへ    


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***