「江戸開城」

海音寺潮五郎作

ドットブック 626KB/テキストファイル 173KB

600円

官軍を率いて勇躍江戸に入った西郷隆盛、動揺する徳川慶喜と幕閣のあいだにあって和平の道を探る勝海舟。両者が対峙した二日間は、その後の日本の行方を決定づけた。幕末動乱の頂点で実現した史上最高の名場面の、千両役者どうしの息詰まるやりとりと、そこに至るまで、そこを経てからの歴史の歩みを、的確な資料を駆使して浮かび上がらせた、傑作長編。

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

立ち読みフロア
 慶応四年二月二日付で、西郷吉之助が大久保一蔵に書いた手紙がある。

 唯今別紙がとどきました。慶喜(よしのぶ)退隠の嘆願、甚だもって不届千万です。ぜひ切腹にまで参らなければ相済まないことです。必ず越前や土佐などからも寛宥(かんゆう)論が起りましょう。静寛院宮(せいかんいんのみや)のような方まで、賊にお味方なされて、退隠くらいですむと思っておられるようでは、世間は一層ことの重大さを知らないと思わなければなりません。どうしても断乎追討とあらせられたきことと存じます。かくまで押しつめたものを、寛(かん)に流れては後に悔いてもかいなきことになりましょう。例の長評議に因循を積み重ねては、千載の遺恨と思いますから、なにとぞ、お持前のご英断をもってお責めつけ下されたく、三拝九拝、願い奉ります。以上。

 書中にいう別紙とは、徳川慶喜の手紙と十四代将軍徳川家茂(いえもち)の未亡人静寛院宮の嘆願書との写しである。慶喜は正月二十一日付で、自分に好意を持っていると思われる在京の越前春嶽(しゅんがく)・尾張慶勝(よしかつ)・山内容堂・浅野長勲(ながこと)・細川護久(もりひさ)等に書を寄せて、自分は退隠するから、朝敵の名を免ぜられるように朝廷にとりなしていただきたいと依頼したが、その手紙は正月末日に京都についた。静寛院宮は慶喜に泣きすがられ、慶喜は退隠して、しかるべき者をえらんで相続させることにしますから、寛大なるご処置あって、徳川家は存続せしめられるように、また箱根以東へ官軍をお向け下さらないようにとの嘆願書を持たせて、お局(つぼね)を上京させられ、そのお局がやはり月末あたりに京都に着いたのであった。
 西郷のこの手紙において、我々の先ず感ずるのは、西郷が慶喜にたいして実にきびしい処置を主張していることである。
 大体、西郷の本質は冷厳峻刻にはなく、温情抱擁にある。むごいことは大きらいな性質なのである。かつて第一次長州征伐の時、そのはじめにおいては、西郷は、長州藩は禁裡(きんり)にたいして発砲し、銃砲弾が紫宸殿のお庭先に落下するというほどの不届きを働いたのだから、領地を削って十万石くらいにしてどこか東国に国がえするくらいにしなければ大義名分が立たないと公言していたが、征長総督の尾張慶勝(よしかつ)を助けて参謀長的役割で実際に局(きょく)を結ぶにあたっては、直接の出兵責任者である三家老を切腹させればそれでよいとして、一兵も加えずしてすました。もちろん、削封や国がえなどはしなかった。
 声を大にすることによって敵をおそれさせ味方を奮い立たせ、局を結ぶにあたってはうんと寛大仁慈の処置をして懐(なつ)かせるというのは、西郷の戦さを処置する場合の手口といってよいのであるが、この場合には別にまた理由があった。
 明治維新は王政復古という名で行われたが、実は復古ではなかった。公家に政治能力のないことは明らかである。大化改新から平安朝初期までの王政時代にかえせないことは言うまでもない。だから、名は王政復古でも、実は天皇の下に公家・大名・諸藩臣の優秀分子で合議政治を行おうというのであった。
 日本人は長い間日本の本来の政治形態は天皇親政であったと考えて来たが、実はそうではなかったのではないかというのが、最近の一部の歴史学者達の考え方である。魏志倭人伝に出て来る耶馬台国では女王ヒミコが最も尊貴な君主となっているが、これはいわば宗教的最高の存在で、政治はヒミコの弟の男王が行なっていたことになっている。日本書紀や古事記に記述されているヤマト朝廷時代のことを虚心に読むなら、天皇はやはり宗教的最高の、いわば象徴的存在で、政治は家族らがとり行なっていたと解釈しないわけに行かない。つまり、日本では主権は二本立てになっていたのである。

……「革命の血の祭壇」
冒頭より

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