「江戸の女」

三田村鳶魚著

ドットブック版 1053KB/テキストファイル 199KB

800円

江戸の町は女が少なく、男が多かった。しかも男は他国者の寄せ集め…そこで当然のように遊廓が繁昌し、嬶(かかあ)天下の風潮を助長し、不義密通も少なくなかった。各章は「女の世の中」「水茶屋の女」「下女の話」「麦湯の女」「女巡礼」「囲い者の話」からなり、さまざまな角度から江戸の女たちの生態と風俗を明らかにする。「笠森おせん」「高島屋おひさ」など、評判をとった女たちもむろん登場する。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

立ち読みフロア
 蔵前に青我(せいが)という水茶屋があって、そこに二十四五になる小意気な女がおりました。ところが、例の並木五瓶(ごへい)、あれはなかなか女好きな人でもあったのですが、この青我の女がばかに気に入った。五瓶は、大門通の高砂町の家から、浅草の観音様へ日参をする。長い間日参をしているうちに、この女が目についたのですが、この女が目についてからは、半日ずつ、その水茶屋にいるので、そのことは誰も知っているようになった。そこで、ある人が、大分御執心のようですが、女が承知してお手に入りましたか、といって聞いたところ、五瓶は、いや、半日ではどうも、ものにならない、一日付きっきりにしたら、ものになるかもしれない、と答えたという話が残っております。しかしこの女は、月囲いにすれば三分で用の足りる女だったのです。寛政以前にあっては、行燈(あんどん)に「一ぷく一銭」と書いておくくらいですから、置く茶代もきまりきった話でありましたが、五瓶がここへ通う時分は、もう文化期でありまして、懸行燈(かけあんどん)にも、「御休所(おやすみどころ)」と書くようになっておりますし、殊に町中(まちなか)の水茶屋ですから、八文や十六文置いていく者はない。どんなに少くても五十か百、場合によれば、一朱も二朱も置いていくことがある。五瓶は女の内情を知らないから、毎日大変茶代を張り込んだ。一年分も二年分もの囲い賃を茶代にして、なおかつものにならなかった。なにしろ正札のついていない女なので、こういう御愛敬がある。それに五瓶は上方(かみがた)者で、江戸のことを知らないから、こういうふうにもなったのです。
 水茶屋の女が月囲いでいくらという相場の出来ていた時代、五瓶が蔵前の水茶屋で浮かされている頃、芝の宇田川町へ、若鶴・白滝という水茶屋が二軒出来た。ここなどは大分烈しいので、ちょっと転ぶのが三分、月囲いが五両ということになっておりました。水茶屋の姐さんだか、私娼だか、わけがわからない。ちょっと転ぶのが三分などというのは、随分高い値段で、入山形(いりやまがた)に二つ星という吉原の一番上等の華魁(おいらん)が一両一分、その次の入山形に一つ星になりますと、三分くらいなものである。しかもこのくらいの華魁は、吉原にそう沢山いるわけではない。一枚絵とか、華魁絵とかいうやつで、世間へ出てもいれば、相当に名も知られている女なのです。水茶屋のチョンの間三分の連中などは、無論そんなものじゃなし、何という女だか、名前も知れていない。けれども、正札のついている華魁の方は、上等のでも割合に安いのに反し、水茶屋の女は、それほどでもないのに、割高に売れるということになる。こういうことは、この時代の様子をよく見せていると思います。
 そういうふうでありますから、町々に出来る水茶屋の多いこと、通り筋になると、一町に五六軒くらいある。そうしてそれは、腰かけて茶を飲むだけのお客さんは下等なので、いずれにも茶酌女(ちゃくみおんな)が酒の相手に出てくる。従って、出茶屋といって、葦簀張(よしずばり)などは市内にはありません。皆、居付の茶店で、今日の喫茶店と思い合せてみると、おもしろいと存じます。もっともこれはもう少し前、安永五年版の『風俗問答』にも、「大和茶(やまとぢゃ)御休所は酒を第一とし、美人即当慊(あいてになる)」と書いてありますから、化政期にはじめて出来た話ではない。大茶屋・小茶屋ということは、随分古くからいっておりますが、水茶屋は勿論小茶屋なので、葦簀張の出茶屋で、朝出て行って暮れ方には店をしまって帰るというもの、上方でいう掛茶屋です。その一番古いのは――神社仏閣の境内、浅草とか愛宕(あたご)とか、神田・湯島・市谷といったような場所には沢山ありますが、市内としましては、芝居の付近にあるのが早かったのだろうと思う。享保十年二月四日に、木挽町五丁目の芝居前の河岸通に、水茶屋が三十五六軒ある、その水茶屋から町奉行に対して出願したのによりますと、従来日覆い小屋掛けで、日中だけ商売をして、暮れ方には家に帰るようになっていたが、今度芝居が土蔵造になったから、水茶屋どもも塗家(ぬりや)に致したい、ということでありまして、それがその月の十八日に許可されております。これが定店(じょうみせ)になったのでは、一番早かったろうと思います。これは、芝居を見物する人々の世話をする、後の芝居茶屋なのですが、それも享保の初めまでは出茶屋であったのです。

……「水茶屋の女」冒頭


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