「江戸の盗賊(一)」

三田村鳶魚著

ドットブック版 254KB/テキストファイル 96KB

400円

江戸以前の盗賊の代表…石川五右衛門、江戸初期の盗賊の代表…向崎甚内(こうさきじんない)、忍びの出の盗賊「乱波(ラッパ)」「出波(スッパ)」にはじまり、どこにでも船を乗り付つけて略奪をはたらく「海賊」、足にはく「草履」に特徴をもっていた「大草履組」「小草履組」という盗賊集団、明暦の火事泥と火付けの親分十七人の処刑、これらを取り締まる幕府の諸策などまで、江戸前期の興味つきない盗賊史。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

立ち読みフロア
富沢町の古着市

 当時に三甚内(さんじんない)と呼ばれましたその一人は、向崎甚内(こうさきじんない)でありますが、他の二人というのは、吉原を開きました庄司(しょうじ)甚内、これは後に甚右衛門と改名しております、それと富沢町の古着市を始めた鳶沢(とびさわ)甚内、これで三甚内になるわけでありますが、庄司と鳶沢の両人は小田原北条の家来だといいますから、いずれも武士なのです。富沢町は、甚内の名字をそのまま、鳶沢町であったのを、後に「鳶」の字をやめて「富」に書き替えました。
 この鳶沢甚内につきましては、天正十八年八月朔日(ついたち)に、家康が江戸へ入城されまして後、諸方から泥坊がだいぶ入り込んで来て、なかなか物騒でありました。そのことを家康が聞かれて、何とかして盗人の張本人を一人つかまえろ、と幕府の役人に命じました。そこで、その頃名高かった泥坊の大将、鳶沢甚内という者を押えて、牢屋に入れておいて、家康にその由を言上した。そうすると家康が、その泥坊を引き出させて、いわれたのには、相当な仕置きをしなければならないのだが、一命を助けてやるから、その方の働きでよそから入って来る泥坊を防ぐようにしろ、そのとき鳶沢が、命を助けて下さるのはまことにありがたいことである、けれども、よそから入って来る大勢の泥坊どもを、私ただ一人の力で防ぐということは、いかにしてもできないことである、これはどこか屋敷地を戴いて、手下の者どもを呼び集めて、その者どもと共に吟味するようにして、大勢の力でやってみたらできるだろうと思います、そうなれば、私の手下の者などに、泥坊などをせぬように致させたい、ついては何とか暮し方をつけてやらなければならない、まだ御当地では、武家にも町家にも古着を商う者がありませんから、他の者には決してお許し下されずに、私どもに限って古着を買って歩くことをお許し下さい、そうして私を古着商の元締めにして下さるならば、お役をつとめましょう、と申し上げた。これが願いの通りになって、元吉原の近所に草原のあったところを一箇所頂戴して、鳶沢町という名をつけて、町屋(まちや)に取り立てることになった。
 鳶沢は手下の盗人どもに古着買いをさせて、毎朝市を立てた。彼等は古着買いに方々出て歩きますから、そのついでに取り調べて、泥坊の入り込む取締りをする。古着買いというものは必ず二人連れで歩くので、布でこしらえた長い袋を肩に掛けている。一人が「古着」といえば、一人が「買おう」といって、大道の両側、町屋の軒下を左右に別れて通る。そうして家の内の様子を見るのです。担いでいる長い布の袋をあけて見ると、中には、麻縄と鳶沢の印鑑とが入っていた。泥坊をしないものでも、古着買いをしたいものは、みな鳶沢の手下になって、この袋を受け取って持って歩く。そういうきまりになった。後々はだんだん世の中が静かになって、泥坊の沙汰がなくなりましたから、二人連れの古着買いの巡回も自然なくなって、鳶沢町も富沢町と書くようになった、と伝えられております。
 この鳶沢甚内というやつは、一方に暮しの立つようにすることを考えて、部下の者の泥坊をやめさせた。そういう考えを持っていましたから、向崎(こうさき)甚内のようにならずにゆけたのです。ここのところが、同じ甚内であっても、向崎と鳶沢との違いでありましょう。だが、鳶沢はもとからの泥坊じゃない、北条の家来だったのですから、相当な武士だったに相違ない。それが時世の変化によって泥坊になってしまったのですが、そこをまた上手に扱ってやり、上手に考えて、江戸の安寧を助けるような働きをさせ、善良な人間に立ち返らせる、という工夫もできる。こういうところは、当人の工夫もありますけれども、それを盛り立ててゆく働きというものも考えなければならない。向崎と鳶沢の成行きを考えてみますと、いかなる人間でも、その心構えによって、自分の運命は作られてゆくものだ、ということを、ありありと見ることができるだろうと思います。
 ここで一つおもしろいことは、泥坊でなくっても、古着買いのしたいものは鳶沢の手下になる、ということがいかにもおもしろい。江戸の古いところでは、泥坊上りの商売を古着買いときめてしまってあるのが、いかにもおもしろい。泥坊は職業とはいわれない、古着買いなら立派な商売だ。泥坊の大将を即刻に変化させた手際、そういうところに、東照大権現(家康)を神様として扱う意味がありはしないか。
 だが、賊の馬に乗って賊を追う。泥坊に泥坊を防がせる。功罪の差引き勘定によって、鳶沢は青天白日の下に太平を謳歌する良民になったので、大変結構なわけでありますが、その後も同じ行き方で、目明しとか、岡ッ引とかいうものが、続々出てくるようになり、それがまた、幕府にとって困った者どもであるのみならず、八百八町の民衆もそのためにひどく苦しんでもおります。
 が、それはそれとして、鳶沢の部下の古着買いは、その偵察によって、新しい都会に来襲する盗人の群を防いだ。向崎甚内は、別に生活の道を考えてやることをしないで、その輩下を率いて泥坊をつかまえることに尽力していた。鳶沢町の由来を見ましても、自分の部下に泥坊をやめさせるには、一方に渡世の仕方を考えなければならないというので、古着屋商売を独占することにした。そういう交換条件があったから、鳶沢は泥坊をやめて、探偵を引き受けて、いい成績を得たのでありますが、彼等にして見れば、泥坊をするのも生きるがためなので、生きられさえすれば古着屋さんですましてゆく。また、その方が安全でもある。鳶沢の立場から言えば、命あっての物種だから、生きているのに差支ないわけであったならば、これから先は戦争のなくなる時世でもあり、乱国が次第にしずまってゆく形勢を眺めれば、現在の時世がすでに自分を押えていることはよくわかる。この上に無理なことをするよりも、安全にゆける方がいいくらいの分別はついたのです。それですから、野武士にしろ、浪人にしろ、時世で手も足も出ないようになってきたのに気がついたものは、かねての気前は折れて砕けて、古着屋さんにもなれば、また、庄司のように「君が父(てて)」と呼ばれて、吉原を開くようなこともする。故主の仇だといって家康をつけねらった佐竹浪人の車丹波守の倅(せがれ)も、非人頭の車善七の御先祖様になってしまったくらいであります。

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