「江戸ッ子」

三田村鳶魚著

ドットブック版 325KB/テキストファイル 240KB

700円

「鳶魚江戸ばなし」続編。江戸幕府がはじまって以降、政治・文化の中心地として急速な発展をみせた江戸の姿をつぶさに見届け、江戸ッ子の出現と相たずさえて進展した江戸の文化、生活の変遷をあざやかに描く一編。武士と町人の関係、江戸ッ子と芝居、旗本奴と町奴と女傑たち、いれずみに火事と火消、水道と井戸、食膳の魚、江戸言葉など、江戸ッ子を多面的・複眼的にとらえた名著。 

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

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桜田と神田の間

 江戸ッ子というものは、私には久しい問題でありまして、誰もむずかしいことだと思っている人もないようですが、それでいて、なかなか面倒な問題だと思います。江戸ッ子というのは熊さん・八つァんのことだといえば、一口で片付いてしまう。江戸で生れない江戸ッ子はない。だが、江戸で生れた者が、皆江戸ッ子かというと、そうでもない。これだけでもちょっとわかりにくいようです。
 第一に、この江戸という言葉が、地理的にいってなかなかむずかしい。江戸四里四方と言い慣らし、江戸八百八町とも言い慣らしている。けれども、嘉永六年に出来た『千代田問答』を見ますと、「今経緯(よこたて)十里、江戸と称す」とあります。それならこれがどこからどこまでだということになると、なかなか面倒だ。江戸では、京の人でも、大坂の人でも、堺の人でも、一口に「上方者(かみがたもの)」といってしまう。また上方では、江戸回り、江戸向うの者でも、皆「江戸者」だし、関東生れの人なら、何でも「江戸者」にしてしまう。これはお互様の話なのですが、一体江戸という土地がどこのところであるかというと、誰も知っている人がない。荻生徂徠(おぎゅうそらい)や賀茂真淵(かものまぶち)は、江戸というのは江の戸で、入江の門戸という意味だ、といっている。その入江の門戸というのはどこかというと、小宮山南梁(なんりょう)翁は、それについて、今の宮城の東の方、日比谷の辺は、慶長時分には入江だったので、江戸という地名は、この辺から起ったのであろう、太田道灌がここに城を築いて江戸城といったのが、何よりの証拠である、南の方は桜田、北の方は神田で、その中間の僅かなところが江戸である、和田・日比などという地名も、この入江の側の地字(ちあざ)であって、和田には後に倉を建てたから、和田倉といっている、「和田」という地名は、海浜には沢山あって、和田岬・岸和田などというようなのもある、「日比」は、日々網(ひびあみ)・日々竹(ひびたけ)などといって、魚を捕るもの、海苔麁朶(のりそだ)のようなものをいうのだから、あの辺は漁師の住んでいたところで、そこが入江の口だったのであろう、そこで江戸という地名が出来たのだろう、といって、徂徠・真淵二先生の説を支持しておられます。
 いかにもお説の通りでありましょう。そうしますと、江戸というものは、桜田と神田との間、まことに僅かな面積だったので、そこは最初村であり、後に町になったわけですが、それが後来の江戸町かというと、そうではない。名前は変らないが、場所は動いております。

……冒頭より


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