「江戸の芸術」

永井荷風著

ドットブック版 279KB/テキストファイル 145KB

500円

浮世絵に関するものを中心に1920年にまとめて刊行された「江戸芸術論」に、別のところで発表された「浮世絵」「鋳掛松」「為永春水」を加えて新たに編成した荷風の江戸芸術論。収録タイトルは以下の13編。

 浮世絵
 浮世絵の鑑賞
 鈴木春信の錦絵
 浮世絵の山水画と江戸名所
 泰西人の見たる葛飾北斎
 ゴンクウルの歌麿及北斎伝
 欧米人の浮世絵研究
 浮世絵と江戸演劇
 衰頽期の浮世絵
 鋳掛松
 狂歌を論ず
 為永春水
 江戸演劇の特徴

永井荷風(ながいかふう 1879〜1959)東京小石川生まれ。東京外国語学校清国語科中退。ゾラの影響をうけ「地獄の花」を書き自然主義文学の紹介者となったが、アメリカ、フランスに遊学後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表、以後一貫して唯美主義的作風で知られた。一時は「三田文学」を主宰、江戸芸術に傾倒した。代表作は花柳界、私娼を舞台にした「腕くらべ」「墨東綺譚」など。その反権力姿勢は終生かわらず、1917〜59年にわたる貴重な世相記録でもある日記「断腸亭日乗」を残した。

立ち読みフロア
浮世絵
 ――明治四十四年四月帝室博物館に陳列されたる古版画を見て

 歌麿の女

 何といふ疲(つか)れた心地よさ。何といふ夢現(ゆめうつつ)の物思ひ。女といふ肉体の感じ得らるゝ限りの快感に、悩んで、痺(しび)れて、將(まさ)に斃(たお)れやうとしてゐる歌磨の女よ。OUTAMARO(ウタマロ)の女よ。
 お前の身体(からだ)は柔(やわらか)な皮膚ばかり、滑かな滑かな肉ばかり、魂は溶けて骨はないのか。坐る時には身体を捻(ねじ)って首をまげ、柱か小窓か欄干か、必ず物によりかゝつて、胴より太い片腿(かたもも)の肉付を、これ見よがしの立膝(たてひざ)に、乱れた裾の間から、心憎くゝも平然として脛(はぎ)の白さを見せてゐる。
 立つ時は驚くばかり丈高く、長い袖、地に敷く裾(すそ)、着てゐる着物は時として、腕も胸もまたは腰なる緋縮緬(ひぢりめん)さへ、透き見えるほどの帷子(かたびら)ながらも、なお其の重さに堪へやらず、今にも倒れはせぬかと危(あやぶ)まれる。
 お前はいつでも後毛(うしろげ)一ツないまでに、髪ばかりは綺麗に正しく撫で付けてゐながら、解けさうになつた帯を一度だつて締め直さうとした事はない。襦袢(じゅばん)の襟(えり)は開けて着物が肩から滑り落ちさうになってゐるではないか。長い長い頸(くび)から顔を浮かすやうにして、お前は何を見ているのだ。蘆(あし)の茂つた隅田川の渡しの景色か。両国橋の賑ひか。否々、細い小さなお前の眼は、覚めやらぬ夢の影のみ追うてゐるのであろう。恥しくて到底口には出せぬと云ふやうに、お前はいつも物云ふ時、片袖の端に口元を蔽(おお)うてゐるのも無理ではない。しなやかな指先に長い簪(かんざし)の端を摘(つま)んでもぢもぢしてゐるのも無理ではない。
 日の光もあまりに明(あかる)く、青空の色も余りに濃ければ、此れを厭ふ風情。吹く風もあまりに弱々しいお前の姿を見れば、自づと吹き柔ぐかとまで思はれる三味線の国の快楽(けらく)の女神よ。恐れと恥ぢと秘密との薄ら明りに、受動的なる歌麿の女は、嘗(かつ)て誘はれし官能の楽みと消えやらぬ触覚の夢とを喞(かこ)つている……

 お花見

 今を盛りと咲きそろつた一株の大きな桜の木蔭。うるはしい春の日の午後。突然に吹き起つて来たらしい烈風は、遠慮会釈もなく落花の雪を吹き散らす。あれよ、あれよ。この世のかぎりの悲しさを目の前に見る心持。振袖の袂(たもと)をかざして、まだ十四五の姫君は黒髪の飾りも重げな其の顔を斜めに外向(そむ)けて彳(たたず)むと、その右より左より、年増盛りの丸髷の奥女中、打掛(うちかけ)の袖垣結(ゆ)ひめぐらして風におどろく姫君をかばひ、降りそゝぐ落花の雪を振払ふ。今年の花見も早や今日かぎり、また来る年の弥生(やよい)まで、春を悲しむ歌を残して、いざ去らん。
 十七八のうつくしい腰元は、姫君の春に別るゝ短冊を、桜の枝に結ばうとしてゐるが、桜の枝は肥肉(ふとりじし)の腰元の十七八の丈(せい)よりもまだ高い。丈伸(せの)びをしても達(とど)く事か……。一人の腰元は大叶(おおかない)と書いた甘酒の樽の上。また一人の腰元は女に見まがふ美少年の肩の上。
 酒樽(さかだる)の上に乗つた腰元はやつとの事で、短冊を桜の枝に結び得た。落花の風は幟(のぼり)のやうに裾と袂を吹き払ふ。地の上に蹲踞(しゃが)みつゝ女の腕の力かぎり、一人の腰元はさして大きからぬ酒樽の倒れぬやうにと押へて居るが、上なる腰元は吹きつける烈風に重い袂を吹き払はれ、ともすれば身体の中心を失ひかける。飜(ひるが)へる裾の間からは流れ出(いず)る蹴出(けだ)しと共に真白き脛(はぎ)の見えやうとするので、片手を枝に片手を裾前に、其のすらりとした身体をかゞめ、中輪(うちわ)に堅く揃へた両足の指先に力を入れて、この危(あやう)い踏台から一刻も早く飛び下りやうと悶えている。それとは違ひ、幸ひなるは美少年の肩に乗つた腰元である。女のみなる御殿の奥深く、女のおもちやになるべく養はれた美少年の御小姓(おこしょう)は、おとなしやかな其の顔を斜に俯向(うつむ)け俯目(ふしめ)になつて、しなやかな其の肩先まで、両手にしかと女の腰を抱(いだ)いて差上げている。女よりも弱々しい顔立の満身に力を入れてきりゝと結んだ小さな其の口尻(くちじり)の愛らしさ。高く差上げられた腰元の、心のよろこび、胸のとゞろきは、風に揉(もま)れる振袖の裾と袂と、腰上げの結び目長き紐の乱れに現はれ、短冊を持つ両の手先は、短冊を結ばうとしてもなかなか結び兼ねたる様子である。
 あゝ静なる春の奥庭、吹く嵐、散る桜、風に驚く姫君よ、樽に乗る女よ。女を差上げる美少年よ。あゝ、初代豊国(とよくに)の絵が奏(かな)で出(いず)る心地よき曲線と古びし色彩のシンフオニヤ。滅びし時代の歓楽の夢。


……「浮世絵」冒頭より


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