考証[江戸の面影1]

稲垣史生著

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400円

私はテレビや映画の時代劇で作られた誤った江戸のすがたを、本来の、ありしままの江戸に戻したい…時代考証の第一人者がつづる「江戸の面影」。上野・谷中・湯島・根津から御徒町・入谷・根岸の里まで。数多くの気の利いた川柳、俳句をちりばめた好個の読み物。

稲垣史生(いながき しせい、1912〜96)時代考証家・歴史小説家。本名、稲垣秀忠。富山県出身。早稲田大学文学部国文学科を卒業。東京新聞記者、雑誌編集長を経て、文筆業に。『時代考証事典』『武家事典』『江戸生活事典』など著書多数。時代考証の第一人者としてNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』『樅ノ木は残った』『勝海舟』などで時代考証を手がけ、第1回放送文化基金賞受賞。杉浦日向子は弟子であった。

立ち読みフロア
 天正十八年(一五九〇)秀吉がまだ小田原城を攻めていた或る日、家康が石垣山の本陣を訪ねて来た。気さくな秀吉は戸外へ家康を誘い、小田原城を眼の下に見る広っぱへゆくと、とつぜん前をまくって放水した。
「家康殿、そなたもなされ」
 というので、家康も並んでおなじく放水した。これを「関東の連(つれ)小便」の始めとするのは有名な話。
 ところでそのあと秀吉が、眼下の城を顎でしゃくって家康にいった。
「あの城、落ちたらそなたに進ぜよう。だが、居城は東へ十里ほどのところに、江戸という景勝の地があるからそこにしなされ」
 家康はもちろん小田原か鎌倉のつもりだったが、今の絶対命令にうんもすんもない。このとき居城は江戸ときまり、後の幕府の所在地として、世界一の大都会になる運命を負った。家康はとくに反発も、また、謝辞をのべるでもなくその年の八月一日に江戸入りをした。
 ところが、ひどい。当時の江戸城は掻き上げの土塁に、海に向って建つのはみすぼらしい木戸門、本丸の建物ときてはこけら葺で、玄関の式台として船底板が三枚ならべてあるだけであった。小田原の出城として遠山景政がいたが、本城落城まえに放棄したものである。川柳にいう。

 秀吉が来て小田原のこけを引き

 小田原北条を鱗(うろこ)に誓えているが、江戸城もその一枚にかけてあると見ていい。
 城の東方はいちめん汐入りの葦原で、武家屋敷や町家を割りつけようにも使える土地は十町あるとも思えない。西南はでこぼこ台地であり、その末は丈なす草原が眼のかぎりつづく武蔵野であった。城祖太田道灌の歌、

 我庵(いお)は松原つづき海ちかく
  富士のたかねを軒端にぞ見る

 を家康はとうぜん知っていたが、これではあまりに見透しがよすぎた。今の地形にあてはめてみれば、丸ビルから日比谷公園あたりまで入江で、日本橋・京橋・銀座・築地の一帯は海面すれすれの洲であった。城の背面はどうかといえば、麹町から四谷にわたる台地、市ヶ谷・牛込の台地、それに駿河台から本郷に至る神田山の台地、その西方には小石川台地が波のように起伏していた。
 これら台地にふる雨は、流れ下って後楽園から神田三崎町あたりに沼をなしている。その末は南に流れ、現在の大手門前の堀をとおって日比谷の入江に注いでいた。平川である。また永田町台地と赤坂台地の谷間には、湧水による細長い溜池ができ、ずっと赤坂溜池の名を残していた。
 転じて、本郷台地の東には上野・谷中台地があり、一帯の雨水を集めて不忍池をなしている。それはさらに東の方、今の下谷にあった姫ヶ池、千束(せんぞく)へかけての千束池へつながり、末は隅田川へ落ちていた。この辺り、わんわん蟆子(ぶよ)のとぶ川と沼地の低湿地であった。
 以上をひっくるめて想像すれば、武蔵野の果てのでこぼこ台地の一角に江戸城が建っており、入江はその土塁まぢかまで迫っている。だから前面はほとんど海、わずかに隅田の川口ちかくに、猫額大のデルタを見るにすぎなかった。背面の台地は高所で四十メートル、縦に走ってところどころ沼地を作っている。神田、桜田など耕地の遺名といわれるが、ぜんたいに沼と葦原の荒蕪(こうぶ)地といって憚らない。
 当時、百軒ほどの漁師の家が、京橋、銀座辺りの渚に並んでいた。が、長雨や大風のときは高汐となり、いつも家が水びたしになるので、その都度漁師たちは妻子や世帯道具を舟に乗せ、日比谷の入江ふかく避難して来た。そして後の馬場先門あたりで、岸辺の松に舟をつなぎ、炊事の煙を立てているのが望まれた。何とも東国らしい、蕪雑な風景の一漁村にすぎなかった。
「こんなところに住めるもんか。体のいい追っぱらいではないか」
 と家来たちは憤慨した。

……
「大江戸の町造り」冒頭より

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