考証[江戸の面影2]

稲垣史生著

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400円

私はほんとうの江戸を描いてみるつもりであった…時代考証の第一人者がつづる「江戸の面影」続編。浅草界隈と吉原について、一読、びっくりするほどくわしくなれる好個の読み物。「雷門」「四万六千日」「待乳山」「山谷堀」「猪牙舟」「大門」「花魁道中」「おはぐろどぶ」…

稲垣史生(いながき しせい、1912〜96)時代考証家・歴史小説家。本名、稲垣秀忠。富山県出身。早稲田大学文学部国文学科を卒業。東京新聞記者、雑誌編集長を経て、文筆業に。『時代考証事典』『武家事典』『江戸生活事典』など著書多数。時代考証の第一人者としてNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』『樅ノ木は残った』『勝海舟』などで時代考証を手がけ、第1回放送文化基金賞受賞。杉浦日向子は弟子であった。

立ち読みフロア
 吉原への陸の三道とも、日本堤を駕籠か馬で吉原の入口五十間道へやって来た。道哲庵や袖摺稲荷など、てんで眼に入らぬほど心浮き浮きで土手を飛ばした。
 吉原へのコースで今ひとつ、あいまいなまま見すごされているものに舟便がある。柳橋から船で山谷堀を遡るというのだ。堀は長く吉原まで行っているから、そのまま船で廓まで乗りつけるのか?
 いや、そうではない。江戸初期にはどんな大尽でも、駒形辺りへ船を着けてあとは歩いた。それが時と共に上流へ遡り、待乳山聖天の下、山谷堀までゆくようになった。客はここで船を捨て、あとは駕籠か馬でゆくようになったのである。
 今でも待乳山聖天の右側丘上、戸田茂睡の歌碑辺りから見えるのが今戸橋、あとは名のみの堀となっているが、むかしはややさかのぼって聖天橋・山谷堀橋が架かっていた。山谷堀といったのは主として今戸橋〜聖天橋の間のことで、元禄(一六八八〜一七〇三)にはこの両岸に、吉田屋・坂本屋・鶴や・和泉屋・麓屋など有名な船宿が軒行燈を並べていた。延享(一七四四〜四八)にはその数七十軒を上まわった。『絵本江戸土産』にその絵があり、道路をへだてて船宿が十軒、背後に聖天の屋根が見えている。
 店には遊客用の編笠が掛けられ、現にその編笠をかぶって土手八丁へ向う客がいる。また、すでにご帰館か宗匠頭巾の客が、踏板をふんで<T-R>猪牙(ちょき)へ乗り移ろうとしている。
 舟はいずれも猪牙舟だが、はじめは屋形船も屋根船もこの岸へ着いたらしい。

 吉野丸どたりどたりと堀へ着き

 がそれ。伊達綱宗が高尾を身請けし、連れ帰ったのもこの屋形船であった。

 猪牙を呑むように吉野を堀へ着け

 も実感がよく出ている。
 だが、山谷堀は狭い上に、潮が引くと大型船は動きが取れなくなる。そこで屋形船も屋根船もいつか来なくなり、猪牙舟だけが山谷堀へ入った。正徳三年(一七一三)にはその二挺櫓さえ、輻輳を避けるため遠慮した。
 船宿の女房は小粋な年増だが、これがタイミングよく迎えに出て、中つぎの一杯を機嫌よく飲ませたあと、土手八丁へ送り出した。
 山谷の船宿は吉原だけでなく、猿若町へゆく芝居客の中継地でもあった。だから編笠だけでなく、お茶も売る。酒も売る。どっちの客もいわゆる蕩児だから、自然、中つぎの一杯だが、飲めば相手をする芸者がほしくなる。需要のあるところ化粧の者が発生し、山谷芸者として名を売った。それでも足りず近くの聖天町にも、芝居の<T-R>櫓(やぐら)に因む「櫓下芸者」があらわれた。が、顔も格も、はるかに山谷芸者より落ちた。その山谷芸者を代表するのが、天明(一七八一〜八八)に光った「堀の芸者小万」で、張りと意気地でやたら江戸っ子を嬉しがらせた。

……「
山谷堀風景と名物の船宿より

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