「 江戸の食と娯楽」

三田村鳶魚著

ドットブック版 1120KB/テキストファイル 161KB

600円

前半の「江戸の食」では、「買食いの風」「茶屋のいろいろ」「上方と江戸」「鰹・鮪・鰯・鯉・河豚」など食物誌から始まり、「蕎麦と鮨」「天麩羅と鰻」など料理の話、一日三食の習慣の由来を考察した「食事の話」を、後半では「茶番」から「大道芸」「小屋芸」へと発展していった「江戸の庶民芸能」の変遷を縦横に語る。万歳、落語、寄席の盛衰、幽霊人形師の話など、興味はつきない。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

立ち読みフロア
  今度のお話は、江戸時代の庶民の食物です。皆の食物、市街地の食物、という心持で「庶民」という文字を使ってみました。
 江戸時代の町家の人達は、その身分の差がいろいろありましたけれども、それには拘らず、奢(おご)りに行く、といいまして、毎月一回なり二回なり、家族を連れて料理屋へ行く、という仕癖(しぐせ)がありました。これは、旦那株の人でも、半纏(はんてん)を着ている人でも、奢りに行くといえば、必ずこういうことをやったものです。その他にも、自分の家で出来るものばかり食っていないで、料理屋なり何なりについて、食物の供給を受ける。また、それを好む様子があった。これは、相当な台所を持っていないからそういう風が起ったかといいますと、そうではない。町家でも、家によっては、我儘な生活の出来る人でも、やはりそういう傾向がありました。それがまた、一々に料理の沿革というものになってゆくわけであります。
 大体、この食物を買って食うということは、旅からきている――旅行によって起ったことなので、本来はめいめいの家で自ら供給しているのですが、旅へ出るとどうしても他の供給を受けるより仕方がない。そこで、路銭・旅入用というものには、必ず貨幣を持って出なければならない。世の中の一般が物々交換であった時代から、貨幣が主な働きをしかけたのは、旅ということがあったためでありまして、それは食物の供給を他に仰ぐことからきています。それは旅ということからいえば必至の事柄で、旅であるから日々のことが変ってゆく。別にたくらまないでも、不断受用していた食物とは違ったものに出っくわすことがある。自分のうちでものを食うのでないということが、珍しい変ったもの、という方にひろがってゆく。それから先は、また善尽し美尽すというふうに発達していったのでありますが、そういうことから考えると、旅の食物ということと、後来の料理屋、その他の食物とは、かかり合いがあるように思われます。
 そんな古い話はおいて、近い寛永期になりましても、海道の立場(たてば)〔街道ぞいの休息所〕のほかは、食物の供給をする場所がなかった。それどころじゃありません。江戸の中でも、享保の半ばまでは、丸の内から浅草観音までの間に、食物屋がなかった。四谷成子(なるこ)辺には、安永頃までなかったそうです。金竜山に五匁料理が出来たのが享保の末で、それがたいそう珍しいことのように思われていましたが、宝暦期にはもうなくなっていました。この五匁料理の最初はどうであったといいますと、明暦の大火災後に、奈良茶飯というものが出来た。豆腐汁・煮染(にしめ)・煮豆といったようなもので、これは奈良の旅籠(はたご)の仕方を学んだものだそうです。旅ではないけれども、明暦の大火後に、その風をうつしたものが出来た。菜飯の茶屋といって、享保に名高いものが出来たのは、この系統に属するものであります。
 元禄十三年の地震火事の後には、焼け場に田楽(でんがく)売りが出ました。一串三文ずつでしたが、何しろ震災後ですから、町人ばかりじゃない、士(さむらい)衆もこれを食べた。その翌年飢饉で皆が困った時、江戸の端々へ煮売(にう)り小店が出た。昔の飢饉は物がないので飢饉がくるので、今の飢饉とは違いますから、どうしてもこういうふうになる。この時初めて往来で食物を売るようになったので、屋台店が出るようになったのは、天明五年の飢饉の時からです。こういうことも、やはり自分の家で物を食う都合にゆかぬため、他から食物を仰がなければならぬ事情を生じて、こういうものが発達したのであります。
 そこで注意してみなければならぬのは、煮売りということです。煮売りには、行商する者と、辻売りといって人の大勢寄る所へ持ち出して売る者と、場所を動かずに店を構えてやるのと、おおよそ三通りありますが、これが江戸の市街地で食物を供給する最初のものでありました。このうち一番早いのが行商・煮売りで、いつからというよりどころはありませんが、寛文元年十二月二十三日に、煮売りの夜商(よあきない)をしてはならぬという禁令が出ておりますから、この頃既に行商のあったことが察せられる。それ以前どのくらい遡(さかのぼ)っているかというと、何ともわかりません。寛文十年七月には、午後六時以後の商を禁じておりますから、この頃は店舗のあったことを認めることが出来ます。けれども、この時分の煮売屋なるものは、どういう人々がそれを利用したかといいますと、これはごく低い階級に限られておった。武家は勿論、商家でも手堅いうちでは、テンヤ物といって、他から供給する食物を嫌う風がある。料理屋からものを取ることさえ、嫌う家がありました。後々までも、買食いというのは、ごくいけないことになっております。町家の堅い家では、武家の風を真似て、そうなったのです。後にはそうばかりもゆかなくなりましたが、それでも、大きな町家では、外へ出る時には弁当を持って行く。あるいは、先々へ申し付けておいて、どこどこで昼食するから、といって支度させて置く、というふうになっている。延宝三年の『吉原大雑書』に、いろいろ風儀の悪くなったことを挙げて、

 今の女郎は、あさましや、文庫の蓋に花鰹いとあらあらしく手づからかき、小夜更(さよふ)けがたに蕎麦切を待ちかね玉ふ体たらく、焼蛤に立つ烟、真垣の内にみちみちて、鼻持ちならぬ其内に、哥や連歌に引かへて、饂飩、田楽、酒を好み、お茶挽(ひ)き、お敵(あひて)のあらざれば、から酒盛のちやわんのみ、かゝる風情を見るからに、思ひかけたる常陸帯(ひたちおび)、むすびしえんもきれはてゝ、飽かぬ別をし玉ふぞや、たしなみ玉へ。

 と書いてある。この時代までは、遊女でさえ、そういう買食いをすることをいやがった。買食いがいい風俗でないというふうに、考えられていたのです。一番先に、吉原にそういうことが言い出されたのは、あそこはああいう場所柄だけに、他の場所よりも食物の供給が盛んであったことが考えられる。ものを食うことを、下卑(げび)るという。「下卑蔵(げびぞう)」なんていう言葉もあります。後々までもそういう言葉を使った根っ子をなすものは、延宝期の吉原であったように思われる。吉原でもそうだとすれば、他の場所では勿論だということがわかると思って、この『吉原大雑書』の文章を抜書きしてみました。

……「買食いの風――煮売りの発生 」冒頭より


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