「エマ」 (上・下)

ジェーン・オースティン/ハーディング祥子訳

(上)ドットブック 185KB/テキストファイル 199KB

(下)ドットブック 178KB/テキストファイル 192KB

各500円

『エマ』というのは、だれもが気軽に手にとってみたくなる題名です。そして事実、ジェーン・オースティンというのは、実に気軽に楽しんでもらえる作家なのです。そのうえ彼女ほど、読者の好き勝手な解釈を許してくれる作品を書いた作家もいません。通俗的な恋愛小説ととってくださってもかまいません。または、18世紀後半、あるいは19世紀前半の風俗習慣が生き生きと、手に取るように伝わってくる作品と解釈することもできます……要は、多種多様の要素を含みながら、けっして押しつけがましいところがなく、ひたすら読者を楽しませてくれる。それが彼女の作品の素晴らしさなのです。(訳者の言葉より

ジェーン・オースティン(1775〜1817)英国ハンプシャーに牧師の娘として生まれる。結婚せず外面的には平凡な生涯を送ったが、創作意欲は旺盛で平穏な日常生活のなかに展開するドラマを的確な人物描写によって描き上げた。「分別と多感」「高慢と偏見」「エマ」「説 きふせられて」など六つの作品で知られる。モームは「高慢と偏見」を世界十大小説の一つとして挙げた。

立ち読みフロア
 エマ・ウッドハウスは、美しくて頭が良い、金持ちの娘だった。居心地のいい家庭と性格のよさにも恵まれ、世の中の幸せを一身に集めていた。生まれて二十一年近く、悩みらしい悩みももったことがない。
 父親は愛情に富み、子どもに甘かった。ふたり姉妹の下だったエマは、姉が結婚してからというものかなり若い頃から、当然の成り行きとして一家の女主人の役割を担った。母親は小さいときに亡くなり、かわいがってもらった記憶がかすかに残っているだけだ。代りに、実母に勝るとも劣らない愛情でふたりを育ててくれたのが、優秀な家庭教師だった。
 ミス・テイラーはウッドハウス家に十六年も仕えていた。家庭教師というより、むしろ友人のような接し方で姉妹を愛し、なかでもエマには格別の愛情を抱いていた。ふたりの仲のよさは姉妹以上と言ってもよかった。屋敷内の、教務室とは名ばかりの室を使わなくなる以前から、穏やかな性格のミス・テイラーは、エマにたいして厳しい規則をいっさいおしつけようとはしなかった。そして教師としての権威がすっかり影をひそめてしまってからも、ふたりは仲の良い、互いに惹かれあう友として、一緒に暮らした。こうしてエマは、ミス・テイラーの意見をじゅうぶんに尊重しながらも、たいがいは思いどおりに、好きなように生きてきた。
 実際に、エマの置かれた立場で悪いことといえば、彼女があまりに好きなことができすぎたことと、自分をいい人間だと思い込みすぎていたことだろう。それは、エマのすべての歓びに、うっすらと暗い影をおとす危険性を含んでもいた。しかし、その影もいまのところはほとんど表にはあらわれず、それを彼女の欠点だと思っている者もいなかった。
 悲しみがおとずれた――そこはかとない悲しみだった。と言っても、決して不愉快な事件が起きたわけではない。ミス・テイラーが結婚したのだ。ミス・テイラーを失って、エマは生まれて初めて悲しみというものを知った。結婚式の夜、エマはいままでになく長いこと彼女をしのんで座っていた。式も終わり、宴《うたげ》に集まったひとびとも帰って、父親とふたりきりで、長い夜を楽しくしてくれる訪問客の予定もない。父親がいつもの食後のうたたねをしているあいだ、エマはじっと座ったまま、自分の失ったものに思いを馳せていた。
 ミス・テイラーにとってこの結婚は、あらゆる幸せを約束している。相手のウエストン氏は申し分のない性格で、それなりの財産もあり、年齢的にもぴったりで、非常に感じのいいひとだ。それにエマ自身この結婚を、私心のない真の友情をもって、強力に後押ししてきたことを思うと、多少のなぐさめもないわけではない。それでもやはり、この先続くであろう暗い冬の朝のような日々を思わずにはいられなかった。これからは毎日、毎時間、彼女がいないことを思い知らされるのだ。エマはミス・テイラーのやさしさを思い浮かべた。それは十六年にわたるやさしさと、愛情の思い出だった。五歳のころから、元気なときには、いろいろと教えてもらったり、一緒に遊んでもらった。彼女は全身全霊でエマを愛し、喜ばせてくれた。そして、子供にありがちな様々な病気のときも、どれほど親身に看病してくれたことか。それだけでも大きな借りがある。しかし、それいじょうにいとおしく、心温まる思い出は、イザベラが結婚した後、ふたりだけで過ごした七年間につちかわれた、対等で遠慮のない関係だった。彼女はめったには得られない真の友であり、ともに暮らす伴侶でもあった。知的で、物知りで、有能で、おだやかで、家族全員を知りつくし、そこにおきるあらゆる事柄に興味を示し、ことにエマにたいしてはどういうわけか、喜びにしろ、思いにしろ、すべてに関心をもってくれた。彼女が相手だと、思ったままを口にすることができたし、またその愛情ときたら、エマには欠点などなにひとつないと信じ込んでいるほどのものだった。
 この変化に、いったいどう耐えていったらいいのだろう? 彼女はここから半マイル先のところに落ち着くことになっている。しかしエマは、そのたったの半マイル先に住むウエストン夫人と、共に暮らしたミス・テイラーとのあいだには、計り知れないほどの違いがあることを知っていた。あらゆるものに恵まれていたにもかかわらず――それが生まれつきだろうが、育ちからだろうが――彼女はいまや精神的にひとりぼっちになってしまったのだ。心から愛してはいても父親は、友だちではない。知的な会話にしろ、冗談にしろ、とても話があいそうになかった。

……第一章 冒頭より


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