「危機のエンドハウス」

アガサ・クリスティ/松本恵子訳

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500円

イングランド南部の風光明媚な海辺にあるエンドハウスの当主ニック嬢は、何者かに命をつけ狙われ、三度も危難をくぐりぬけて命拾いをしていた。現に当地に滞在中のポワロの目の前で、狙撃事件が発生する。彼はヘイスティングスとともに事件の捜査に乗り出すが、犠牲者の出るのを防ぐことはできなかった……意想外の展開をみせるクリスティ初期の力作。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポワロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア

 英国の南海岸にある町で、セント・ルーほど、魅力ある場所はないと思う。海水浴場の女王とは、よくも名づけたもので、誰でもリビィエラを思い起こさせられる。英国西南地区にある、この景勝地は、フランスの南海岸と同様に、どの小景も、私の心を奪うばかりであった。
 私は、友人のエルキュール・ポワロに対して、大いにその所見を述べた。
「君、そういうことは、きのうの食堂車の献立表に書いてありましたよ。君のその発言には独創性がない」
「それにしても、あなたはそうお思いにならないのですか」
 ポワロはひとり微笑していて、私の質問に答えなかった。私はもう一度、その言葉をくり返した。
「これは失礼千万でした。ヘイスティングス君、私の心がよそへさまよっていたものでね……実は、今、君のいった場所へ行っていたのですよ」
「南フランスですか」
「さよう、私は去年の冬を、あそこで過ごした時に起こった、ある事件を考えていたのです」
 私も思い出した。青列車で殺人が行なわれ、ポワロが例の的確な鋭才によって、複雑怪奇な謎を解決したのであった。
「あの時、僕もあなたと一緒にいたら、どんなによかったろうと思いますね」
 私は残念でたまらない気持をこめていった。
「わたしもそう思いますよ。君の多くの経験が、私にとってさぞ役に立ったろうと思ってね」と、ポワロはいった。
 私は彼を横目で見た。長年の習慣の結果として、私はポワロの賛辞には、信を置かないのである。しかし彼は全く真面目らしかった。それもそのはずである。私は、彼の採用している方式には、非常に長い経験を持っている。
「ヘイスティングス君、私が特に残念に思ったのは、君のいきいきした想像を聞かしてもらえなかったことですよ。誰しも多少は軽い慰安を必要とするものですからね、私の従僕のジョルジュは素晴らしい男で、私はよく要点を論じる相手にしたものですが、彼は全然、想像力というものを持っておりませんでした」
 このいいぐさは、私には見当ちがいのように思われた。
「ポワロさん、聞かしてください。あなたは実際に活動を新たにしたいという誘惑を感じられたことはないんですか? 現在のこの受け身の生活は……」
「素晴らしく私の気に入っていますよ、日向ぼっこをしている……これ以上に素敵なことが他にあり得ましょうか。名声の頂上に達したところで舞台から下りてしまう……これに勝る華々しい所作がありましょうか、人々は私のことをこう申します。あれが偉大な……比類なきエルキュール・ポワロだ! 今までにあれほどの人物はいたことがなかったし、これから後も決してああいう人物は現われないであろう! とね。結構ですとも。私は現在に満足しておりますよ。これ以上求めません。私は謙遜な人間でございますからね」
 私であったら、この場合に謙遜なんていう言葉は使わないであろう。私のこの小柄な友人の自惚(うぬぼれ)は、たしかに年と共に衰えるどころではないらしい。彼は椅子の背にもたれて、自己満足に、咽喉(のど)をごろごろ鳴らさんばかりにして、髭をなでていた。
 われわれは、マジェスティック・ホテルのテラスの一つに腰かけていた。それはセント・ルーで一番大きなホテルで、海を見晴らす岬の上の敷地に建てられていた。ホテルの庭園は、われわれの眼下に横たわって、棕櫚(しゅろ)の木を気ままに点在させて、趣きを添えていた。海は深みのある美しい青で、空は晴れ渡り、太陽は八月の太陽としての誠実な烈しさで(英国ではしばしば不誠実である)輝いて、蜂のぶんぶん唸る活溌な快い響きがあたりに溢れている……とにかく、これ以上に理想的な条件はないであろうと思われた。
 われわれは前の晩に到着したばかりで、一週間滞在しようという計画の、第一日目の朝であった。もしこの天候が続いてくれさえすれば、実に申し分のない休暇を過ごすことになるのである。
 私は手からすべり落ちていた新聞を取りあげて、朝刊ニュースを再び熟読しはじめた。政局の動きはあまり香ばしくないらしいが、興味がない。支那に悶着が起こっている。経済界では取り沙汰されていた詐欺事件の長い記事があった。だが全体として、血を湧かせるという種類のニュースは一つもなかった。私は新聞をめくりながら、
「このオウム病というのは、奇妙な事件ですね」といった。
「たいそう奇妙です」
「リーズでまた二人死んだ」
「まことに憂うべきことです」
 私はまた、次の頁をあけた。
「世界一周飛行のシートンという飛行家の消息はまだ知れない。あの連中は実に勇敢だ。あの男の水陸両用機アルバトロスは、偉大な発明にちがいない。西方へ行ったのだとすると、見込みがないが、まだ絶望というわけではない。太平洋諸島の一つに、不時着したかも知れない」
「ソロモン群島の原地民は、今でも人喰い人種でしたっけね、そうではありませんか」と、ポワロは軽い調子でたずねた。
「立派な男にちがいない。こういう壮挙はわれわれに、結局自分が英国人であるのは、いいことだと感じさせますね」
「それは、ウィンブルドンのデビスカップ戦で、英国が敗れたことの慰めになりますね」と、ポワロはいった。
「僕は、そういう意味でいったのではないのです、僕は……」と私がいいかけると、ポワロは軽く手を振って私の弁解を親切にも払いのけた。
「私は、お気の毒なシートン大尉の飛行機のように、水陸両用ではございません。しかし私はコスモポリタンです。そして英国人に対しては、君も知っての通り、いつも非常に敬服しております。たとえば、英国人が毎日の新聞を読む場合の、徹底ぶりなどには」
 私の注意は、政治記事にそれていった。
「野党は、内務大臣を、大分いじめつけているらしい」
 私は、くすくす笑いながら、いった。
「気の毒な人ですね、あの人は個人としての苦労がおありなのです。さればこそ、全く思いもかけないような方面に、助けを求めてよこされる」
 私は相手の顔を、凝視した。
 ポワロは軽い微笑とともに、ポケットから、ゴムバンドで、きちんと束ねたその朝の郵便物を取り出した。そしてその中から一通の封書を選び出して、私のほうへ投げてよこした。
「昨日、私どもが出発したあとに届いたのです」と、ポワロはいった。
 私は快い興奮を覚えながら、その手紙を読んだ。
「ポワロさん、これは光栄の至りですね!」
「君は、そう思いますか?」
「あなたの才能について熱狂的な讃辞を述べているではないですか!」
「間違いのないことをいっておりますよ」といって、ポワロは謙遜している風に眼をそらした。
「特別のご好意にて……あなたにこの事件を探求していただきたいと頼んでいますね」
「その通りです。その手紙の内容を全部、私にくり返して聞かせる必要はありませんよ。ヘイスティングス君、私は自分でその手紙を読んだのだということはおわかりでしょうが」
「がっかりですね、これでわれわれの休暇もおじゃんでしょう」
「いやいや、落着きなされ! それは問題ではありません」
「しかし内務大臣は、至急を要する件だといっているではないですか」
「それは正しいかも知れず、あるいは正しくないかも知れませんね。政治家というものは、とかく興奮しがちなものです。私はパリの下院を見たことがあります……」
「そうですが、ポワロさん、準備すべきではないですか? ロンドン行特急はもう出てしまいました……十二時発です。次は……」
「落着きたまえ、ヘイスティングス君、どうか落着きたまえ。興奮はいつも騒擾(そうじょう)を伴うものですよ。私どもは、今日ロンドンへ行くわけではありません、明日だって」
「しかしこの招待状は」
「それは私に関係ないことです。ヘイスティングス君。私は英国の警察に属している人間ではありませんからね。私は非公式の調査者として依頼されましたのです。で、私は拒絶しました」
「拒絶したんですって?」
「しましたとも、私は非常に鄭重(ていちょう)な手紙を書き、遺憾の意を表し、実にみじめな気持になっている旨を述べ、充分に陳謝しました。それより外にどうにもしようがございますまい。私は引退してしまったのです。私はもうおしまいです」
「あなたがおしまいだなんて、そんなことがあるものですか!」
 と、私が激して叫ぶと、ポワロは私の膝を軽く叩いて、
「我が友よ、よくおっしゃって下すった。我が忠犬よ、君がそういってくれる理由はありますとも。灰色の脳細胞は依然として顕在です。順序と方法は依然として存在しておりますけれども、引退した以上は、私は引退したのです。もう仕事は完了したのです! 私は世間にむかって一ダースも告別興行をくり返すステージの花形ではございません。私は、気前よくこういったのです……後輩に道をゆずれ……とね。疑問は持っておりますが、あるいは若い者たちはうまくやるかも知れませんからね。とにかく若い連中はこの内務大臣の、疑いもなく厄介な事件を相当うまく捌(さば)くでしょう」
「しかしポワロさん、大臣の讃辞に対して」
「私は讃辞などは超越しております。内務大臣は分別のある人ですから、私の承諾さえ得ることができれば、万事が成功するということを自覚しているのです。あのお方は不運なのです。エルキュール・ポワロは、もう引退してしまったのです」
 私は相手を見つめた。私は心の底から、彼の強情を嘆き悲しんだ。こうした事件を解決したなら、すでに定評のある彼の名声に、更に輝きを加えることになるであろうに! しかしながら、私は彼の一歩もゆずらぬ態度に敬服しないではいられなかった。
 突然にある考えが浮かんできたので、私はにやりと笑った。
「よもやあなたは、恐れているのではないでしょうね。こういう力強い発言には、神々でさえ誘惑されるでしょうが」
「どういたしまして、何者もエルキュール・ポワロの決意をゆるがすことは不可能です」
「不可能ですって? ポワロさん」
「おっしゃる通りです。誰でもめったにこういう言葉を使うべきではありません。私はこの頭のわきを弾丸がかすめてきて、壁に命中した場合も、その事件を調査しないというのではありません。私だとて結局は人間なのですからね」
 私は微笑した。ちょうどその時、小さな石がわれわれのわきのテラスに命中したところだったので、ポワロの空想的な比喩がおもしろいと思えたからだ。ポワロは身をかがめて、その小石を拾いあげながら、言葉を続けた。
「さよう、私も人間です。眠れる犬……善良な犬です。しかし眠れる犬も奮起させることができます。英語にそういう諺がありますね」
「実際、もしも明日の朝、あなたの枕のわきに剣が刺してあるのを見つけたとしたら、その犯人は気をつけろ! ですね」と、私はいった。
 ポワロはうなずいたが、放心の態(てい)であった。
 驚いたことに、彼は突然立ち上がって、テラスから庭へ通じる階段をおりて行った。ちょうどその時、われわれのほうに向かって急いで来る、若い娘が視野に入ってきた。
 たしかに美しい女性だという印象を受けただけで、私の注意はポワロに向けられた。彼は足許に気をつけていなかったので、木の根につまずいて、どさりと転んでしまった。その時、彼は若い女性とすれすれだったので、彼女と私とで彼を助け起こすことになった。私の注意は自然、友人に注がれていたが、同時に娘の黒い髪と、茶目らしい顔つきと大きな藍色の瞳の印象も意識していた。
「幾重にもお詫び申し上げます……お嬢様は、ほんとうにご親切でいらっしゃる……おうっ! 足がひどく痛みますので……いや、いや、ほんとうに何でもないのでございます……こぐら(ヽヽヽ)を返しただけで……すぐ癒りましょう。ヘイスティングス君と、お嬢様がご親切にお助け下されば……お嬢様にこのようなことをお願いするのは、まことに恐縮でございますが……」
 私と彼女とは、両側からポワロを助けて、間もなくテラスの椅子に腰かけさせた。私は医師を迎えに行くと申し出たが、ポワロは鋭くそれに反対した。
「君、何でもないのですよ、こぐら(ヽヽヽ)を返しただけのことじゃないか。ちょっとの間は痛むが、すぐよくなりますよ」
 彼は顔をしかめたが、
「この通り、すぐ忘れてしまいます。お嬢様ほんとうにありがとうございました。幾重にもお礼を申し上げます。まことにご親切さまでした。どうぞお掛けくださいまし」
 若い娘は椅子に腰をおろした。
「いいえ、どういたしまして。でもお医者様に診ておもらいになるとよろしいのに」
「お嬢様、ほんとうに些細なことなのでございます、お嬢様とお近づきになった喜びで、もう痛みがなくなりました」
 娘は笑った。
「それはよかったわ」
「カクテルはいかがですか、ちょうどそういう時間ではないですか」と、私が申し出ると、彼女はためらいながらも、
「そうね……ありがとう」といった。
「マティーニはいかがですか?」
「ええ、どうぞ……さっぱりしたマティーニを」
 私は立ち去った。そして飲み物を註文して戻ってみると、ポワロと娘が、熱心に話しこんでいるのであった。
「考えてみたまえ、ヘイスティングス君、あの岬の上の家ね……それ、私どもがあんなに感嘆して眺めていたあの家が、このお嬢様のお屋敷なんですよ」
 私はそんなに感嘆した覚えもなかったし、第一その家に気づきもしなかったのだが、
「そうですか? 人里からあんなに遠く距(へだ)たっていて、ちょっと不気味で印象的に見えますね」といった。
「エンドハウスっていうの。私、好きですの。でも荒廃した古い家で、今にもばらばらに毀(こわ)れてしまいそう」

……巻頭より

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