「絵のない絵本」

アンデルセン/鈴木徹郎訳

ドットブック版 85KB/テキストファイル 42KB

300円

都会の路地裏の屋根裏部屋に貧しい暮らしをおくる画家志望のひとりの青年。彼は毎晩のように訪れてくれる「月」と親友になった。「月」はそのたびごとに、前の晩かその晩に見かけたことを話してくれて、絵に描いてごらん、と青年に言った。「月」は世界中を旅する旅人だった。話の舞台は作者の故国デンマークにとどまらず、インド、ヨーロッパの各地、アメリカにまでおよび、いつしかそれは33夜からなる「絵本」になった。楽しい話、悲しい話をふくめ、そこにはファンタジックなメルヘン世界がひらけている。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805〜75)デンマークの作家。貧しい靴職人の子に生まれ、15歳のときコペンハーゲンへ出てオペラ歌手を志すが挫折、だが運よく援助を得てコペンハーゲン大学へ。その後は各地を旅し、帰国後「即興詩人」を書いて広く認められるが、同時に創作童話にも手を染め、これがその後の作家としての道を決めた。

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 なんと、まあ不思議なんだろう。なんとも言えないうっとりとしたよい気持になってくると、手も舌も金縛りになって、心に感じているそのままを絵に表すこともできなくなるし、口で言い表すこともできなくなるんだ。といっても、私はれっきとした画家なのだ。私の目がそう言ってくれているし、私のスケッチや絵を見た人もみんなそう認めてくれる。
 私は一介の貧しい青年、せせっこましい路地裏のはずれに住んでいる。かといって明るい光には不自由していない。家々の屋根を見渡す高いところに住んでいるから。この町にやってきたばかりのときは、しばらくはとても窮屈な思いがしたし、寂しかった。森や緑の丘が目に入る代わりに、ずらっと地平線まで灰色の煙突ばかり続いていたし、友達はいなかったし、顔を知っていて挨拶してくれるような人だって一人もいなかったのだ。
 ある夜、私はすっかり悲しくなって、ぼんやり窓際に立っているうち、ふと窓を開いて表をのぞいてみた。
 うわっ、とたんにうれしくなったのなんのって、知り合いの顔が見えたんだ。優しい、丸い顔をしたふるさとでいちばん仲のよかった友達だよ。月なんだ。大好きな、懐かしい月、いつに変わらぬ姿で、あの沼のほとりの柳の間からのぞいて私を見つめていたときと、少しも違っていなかった。私は彼に投げキッスを送った。すると、月の光はさっと私の小部屋にさし込んできて、これからは毎晩、表に出かけるときには、私のところをちょっとのぞいてみようと約束した。それからは、ことばどおり、その約束を守ってくれた。ああ、残念なことにそれでも、月は、ほんのわずかな間しか私のところにいられないのだ。訪ねてくると彼は、必ず前の晩かその晩に見たことを、一つ二つ、話してくれる。
「さあ、私が話して聞かせることを絵にかいてごらん」と、初めて訪ねてきたときに、月は言った。「すばらしい絵本が出来るよ」
 言われたとおり、もう幾晩もそうしてきた。続けていけば、絵だけの自己流新版『千夜一夜物語』だって出来るんだ。しかし、それでは、いくらなんでもかさばりすぎてしまう。ところで私は選別してかいているわけではない。聞いた話を片っ端から絵にしているのだ。優れた才能を持つ偉大な画家や詩人や、あるいは音の芸術にたずさわる人ならば、気が向けば、この話からなにか、もっとすばらしいものをお作りになれるだろう。私がお見せするのは、ざっと紙に輪郭(りんかく)だけをかいたものにすぎないし。それに、ときに自分の思いつきだけでかいているところもあるのだから。というのは、月が必ずしも毎晩訪れたわけではなかったし、ちょくちょく小さな雲が、私たちの間を遮(さえぎ)ることがあったからだ。


第一夜

「ゆうべはねえ」と、これは月の口から出ていることばだ。「私は、澄みきったインドの夜空を滑(すべ)りながらガンジスの流れに姿を映していた。ぎっしりと枝と枝が絡(から)からみあってかめの甲羅(こうら)のように膨れあがったプラタナスの古木の茂みに、私の光は、なんとかしてさし込もうとしていた。
 そのときだった、その厚い茂みからヒンドゥー人の娘が一人出てきた。かもしかのように身が軽く、イブのように美しかった。どことなくなよやかで、それでいて、インドの娘らしく、はち切れそうに肉づきがよかった。みずみずしい肌を透かしてみると、私には娘の胸の思いがわかった。とげだらけのつる草が、彼女のサンダルを引きちぎったけれど、娘はきびきびとした足どりで先を急いだ。のどの渇(かわ)きをいやして河から帰ってくる野獣たちは、おびえながらわきを駆け抜けていった。娘は手にあかあかと炎の燃えあがるランプをかざしていたから。娘が手をかざして炎をかばうと、すんなりとした指に、鮮やかな血の色が透けて見えた。娘は河に近づき、ランプを流れに浮かべた。たちまちランプは流れに乗って、浮きつ沈みつ河を下った。いまにも消えてしまいそうに炎が揺れて、それでも燃え続けると、娘の黒いひとみはきらめき、絹の房のような長いまつげの陰から、思いをこめてその行方を追っていた。娘にはわかっていた、目の届くかぎりランプが燃えていれば、愛する人はまだ生きているということが。だが、消えてしまえば、その人は死んだのだ。揺れては燃えるランプの炎に、娘の心も揺れては燃え、崩れるようにひざまずくと、娘は祈りを唱えた。傍らの草むらには、肌をしめらせた蛇がうずくまっていた。しかし、娘は、ブラフマー神と花婿(はなむこ)のことしか考えなかった。
『ああ、あの人は生きているわ』娘は歓声をあげた。山々からこだまが返ってきて鳴り響いた。『ああ、あの人は生きているわ』と」

……巻頭より

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