ギリシア悲劇全集3

「エウリピデス全作品集 I」

エウリピデス/内山敬二郎訳

ドットブック 413KB/テキストファイル 336KB

1000円

エウリピデス(前485?〜406?)は、アテナイに生まれマケドニアで没した、古代ギリシアの三大悲劇詩人の最後を飾るひとり。アイスキュロス、ソポクレスによって確立された「伝統」と異なり、その作風は人間中心の立場をとり、伝統的な神々を批判したため、当時はしばしば物議をかもした。三人のなかでは最も多い19編の作品が現存する。この第1巻には、10編を収めた。

【収録作品】
「レーソス」
「アルケスティス」
「メデイア」
「ヒッポリュトス」
「ヘラクレスの子供たち」
「ヘカベ」
「アンドロマケ」
「狂えるへラクレス」
「嘆願の女達」
「イオーン」
立ち読みフロア
《メデイア》冒頭部分

【乳母】 アルゴーの船があの蒼黒いシュンプレガデスの岩の間を、コルキスへと走り抜けて行きさえしなかったら――いや、ペーリオンの谷間で、松の樹が伐られて倒れさえしなかったら、そしてペリアースのために黄金の毛皮を取りに行ったあの無双の勇士達の手に、オールを把(と)らせさえしなかったら、そしたら私の奥様が、メデイア様が、イアソン様を思う恋心に胸を撃(う)たれて、イオールコスのお城へ渡航されることもなかったろうし、ペリアースの娘達を騙(だま)して、その父を殺させ、このコリントスで旦那様やお子達と一緒に暮されることもなかったろうに。でも、そんなわけで亡命しておいでになった土地の市民達には喜ばれ、御自身は万事イアソン様に心を合わせておいでになった。そりあ大変結構なんだ、御家内が旦那様に逆らわない時はね。だがしかし、今は万事が憎しみだ。最愛の紲(きずな)が病んでいる。イアソン様は御自分のお子達も私の奥様をも裏切って、この土地の支配者クレオーン様の姫様をお嫁にして、王様と縁組なさるのだ。お可哀そうなメデイア様は、そんなに侮辱されて、誓言を楯に取って叫び、右手の最も厳かな誓約を呼び立て、そして、イアソン様からどんな報いを受けているか、神々に証人に立って下さるよう求めていらっしゃる。食べ物も召上らず、寝てばかりいて、悲しみに体はぐったりとなり、いつもいつも涙にくれておいでになる。旦那様からひどい仕打ちを受けたことを御承知になってからは、お顔をお揚げにならずに、うつ向いて下ばかり見ておいでだ。岩か海の波かのように、お友達の方々の忠告もお聞きにならず、ただ時々白い頸(くび)を曲げて、自分で自分に、懐かしいお父様やお国やお家のことをお嘆きになるばかり、それ等を裏切って旦那様とこちらへいらしたのに、その旦那様が今はあの方を辱しめなさるのだもの。お可哀そうなあの方は、不幸に教えられて、先祖の地から離れるということが、どんな事かおわかりなのさ。お子達までもお嫌いになって、見てもお悦びなさらない。あの方が何か無茶な考えを起しなさりはしないかと、私は心配でならない。激しいお気性だからね。ひどい目に逢わされて黙っていらっしゃりはしない。私はあの方をよく知ってる、私はあの方が恐ろしい。〔寝床のあるお部屋へこっそり忍び込んで、研ぎすました白刄を胸に突き刺しなさるかも知れず、また王様とそのお婿様を殺して、その結果、何かもっとひどい不幸をお招きになるかも知れない〕恐ろしい方だものね。あの方を敵に廻す者は、そう簡単に勝つわけにはいかぬ。だが、あのお子達が競走をやめて、こちらへいらっしゃる、お母様の不幸などちっとも気にしていらっしゃらない、幼い心はくよくよすることなんか好かんからね。(一〜四八)
(老僕、子供等を連れて登場)
【老僕】 わしの奥様の古くからの所有だったお前さん、何だってそんな風に一人で門の前に立って、自分に自分で不幸を口説きたてているのだ? メデイア様が、お前に置き去りにされてひとりぽっちになるのをお望みだとはどういうわけだ?
【乳母】 イアソン様のお子達の年取った世話係りさん、忠実な奴隷には主人の不幸なでき事はやはり胸にこたえるよ。私は苦しくてたまらなくなって来た、それでここへ来てメデイア様の御不幸を、天と地とに訴えずにはいられない気持になったのだよ。
【老僕】 あの不幸なお方は、まだ悲嘆をおやめにならないか?
【乳母】 お前さんはいい気なもんだね、お苦しみはまだ始まったばかりで、半分までも来てはいなんだからね。
【老僕】 迂闊(うかつ)だな――御主人方をそんな風に言ってもいいものならだが――あの最近の御不幸をちいっとも御存知なしだとはな。
【乳母】 それは何なの、老爺さん? 話を惜みなさるなよ。
【老僕】 何でもないよ。つい口を辷(すべ)らした今の言葉を後悔するわい。
【乳母】 どうぞ、その髭にかけて、お前さんの仲間の奴隷に隠しなさるな、必要なら、その事については何もいわないからね。
【老僕】 わしは聞いてるとは思われないようにして、人の話してるのを聞いたのだが、わしが神聖なペーレイネーの泉の側の、あの長老達の坐る「将棋の座」に近づいた時にな、それはこの国の支配者クレオーン様が、お母様と一緒にお子達をコリントスから追い出そうとしてるということだ。しかし、この話は本当にそうなのかどうかわしは知らん。そうでなければいいがな。
【乳母】 それで、イアソン様はお子達がそんな目に逢わされるのを黙って見てらっしゃるの? お母様とは仲が悪いにしても。
【老僕】 古い縁は新らしいのに追い越されるさ、あの人はこのお家の味方ではない。
【乳母】 私達はもう破滅だ、新らしい不幸が古いのに加わるなら、古いのがまだ終りもしないというのに。
【老僕】 しかし、今は奥様が御承知になるのによいおりじゃない、お前さんは静かにしていて、喋ってはいけないよ。
【乳母】 まあ、お子達、お父様があなた方に対してどんな方かお聞きになりまして? 破滅しろとは申しません、私の御主人ですものね。でも、身内の人々にとってひどい方ですわ。
【老僕】 人間はどんな事でもやるものよ。今やっと気がついたか、誰だって身辺の者よりも自分自身の方を大事にするってことによ。中には正常な者もおることはおるが、中には欲のための者もいる、たとえばお父様が花嫁のためにこの方々を可愛がらないならばだ。
【乳母】 さあ、お子達、お家へおはいりなさい、その方がいいから。お前さんはできるだけ、この方達を引離しておきなさいよ、御機嫌の悪いお母様の側へやりなさるなよ。もうすでにあの方が、この方々を牡牛のような激しい眼で、何かしてやろうとでもいうように、見詰めていらしたのを知ってるんだから、お腹立ちをやめなさりはしない、私はよく知ってるよ、誰かをやっつけるまではね。しかし、それは敵に何かやって下さるといい、味方でなしに。(四九〜九五)
【メデイア】 (内にて)ああ!
不幸な私、苦難に悩むあわれな身よ!
ああ、おお、おお! いっそ死んでしまったら!


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