「なぜエヴァンズに頼まなかったんだ?」

アガサ・クリスティ/平井イサク訳

ドットブック版 236KB/テキストファイル 142KB

500円

仲良しの友達トーマス医師と人気(ひとけ)のないゴルフコースでゴルフに興じていたボビイは、谷越えの17番でアイアンをしくじり、ボールは谷底に転がり落ちた。ボールを捜して坂道を下り始めた二人は、崖の下に転落したとみられる瀕死の男を見いだした。男は虫の息で「なぜ、エヴァンズに頼まなかったんだ?」という謎の言葉を残して息絶えた。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
第一章 事故

 ボビイ・ジョーンズは、ティーにボールをのせると、小さくクラブを振ってみてから、ゆっくりと振りかぶり、いなずまのようなすばやさで、それを振り下した。
 ボールは、先に行くにつれて高く上り、バンカーを越してフェアウェイをまっすぐに飛び、十四番グリーンヘマッシー〔五番アイアン〕で軽く打ち上げられる場所へ落ちただろうか?
 いや、そうはいかなかった。上部をたたかれたボールは、地面をかすめて飛び、みごとにバンカーに飛びこんでしまったのだった!
 がっかりしてうめき声をあげるような、熱心な見物人は一人もいなかった。そのショットを見ていた、唯一人の目撃者は、なんの驚きも示さなかった。それには、なんの不思議もなかった――。そのショットをやったのは、アメリカ生まれのチャンピオンではなく、ウェールズの海沿いの小さな町、マーチボルトの教区牧師(ヴィカー)の四男にすぎなかったのだから。
 ボビイは、ひどく涜神(とくしん)的なことを思わず叫んだ。
 彼は、二十八ぐらいの、人好きのする顔立ちの青年だった。彼の一番仲のよい親友も、彼のことをハンサムだとは言えなかっただろうが、彼の顔は、ひどく人好きがし、その眼は、犬のそれのように、正直そうな人なつこさをたたえていた。
「だんだん、下手になるな」と彼はがっかりしたようにつぶやいた。
「力を入れすぎるんだよ」と、相棒は言った。
 トーマス医師は、灰色の髪、赤く、元気のよさそうな顔をした中年の男だった。彼自身は、けっしてフルにクラブを振るようなことはしなかった。彼は、まん中に、短くまっすぐなショットを何回か打ち、たいていの場合、彼より派手な、しかし安定のない相手を敗かすのだった。
 ボビイは、ニブリック〔九番アイアン〕で、猛然と彼のボールをたたき出そうとした。三回目に、彼は成功した。ボールは、トーマス医師が確実なアイアン・ショット二回ですでに達していたグリーンから、わずかに離れた所に落ちた。
 彼らは、次のティーへ進んで行った。
 医師が、先ずドライヴした。みごとな、まっすぐなショットだったが、あまりのびなかった。
 ボビイは、溜息をついてボールをティーにのせ、ころがり落ちたのをまたのせると、長い問、クラブを振っていたが、サッと振りかぶり両眼を閉じ、顔をあげ、あらゆるすべきでないことをした――それなのにコースのまん中を切って、すばらしいショットをした。
 彼は、満足げに深く息をした。ゴルファーによく見られる渋面が、彼の感情を端的に現わす顔から消え、同じくゴルファーによく見られる喜びの色が取ってかわった。
 完璧なアイアン・ショット、マッシーでのちょっとしたチップ、それでもう、ボビイのボールは、ホールに入っていた。彼はバーディ、トーマス医師はボギーだった。
 自信満々で、ボビイは、十六番ティーに進んだ。彼は、再び、あらゆるすべきでないことをした。が、今度はなんの奇蹟も起らなかった。恐るべきほとんど超人的と言ってもいいようなスライスが飛んだのだ! ボールは、直角をなして飛んで行った。
「もしもあれがまっすぐ飛んでたらな――」と、トーマス医師は言った。
「もしもね」とボビイは、苦々しげに言った。「おや、叫び声が聞えたみたいだぞ! ボールが、誰かに当ったんじゃなければいいけど」
 彼は、右手の方をじっと見た。光線の具合でよく見えなかった。太陽がまさに沈みかけており、それをまともに見ると、何一つはっきり見わけるのはむずかしかった。それに海からは、うすいもやが立ちのぼって来ていた。崖のふちは、そこから、二、三百ヤードはなれていた。
「崖っぷちに沿って、小道が通ってるんだけど」と、ボビイは言った。「あのボールは、そんなに遠くまで行ってやしないな。でもやっぱり何か叫び声が聞こえたような気がするんだけど。あなたにも、聞こえましたか?」
 しかし、医師は、何も聞いていなかった。
 ボビイは、ボールを追って行った。なかなか見つからなかったが、ついに、見つけ出した。それは、ハリエニシダの茂みの中にたたきこまれていて、とてもそこから打てるような場所ではなかった。彼は、二つほどそれをたたきつけてから、ボールを拾い上げ、相棒にむかって、このホールはあきらめた、とどなった。
 医師は、次のティーが崖っぷちのぎりぎりの所にあったので、彼の方に向かってやってきた。
 十七番は、特にボビイの苦手だった。地面の割れ目を一つ越してドライヴしなければならないのだ。実際の距離としては、それほどでもなかった、が、下の深さがぞっとするほどだった。
 彼らは、そのあたりでは左手の方、内側にむかい、崖っぷちにそって走っている小道を、すでに横ぎっていた。
 医師は、アイアンを振るって、ちょうど対岸にボールを打ちこんだところだった。
 ボビイは、深く息をしてクラブを振りおろした。ボールは、地面をかすめてころがって行くと、深淵にのまれてしまった。
「いつでも、こういう馬鹿なことをやるんだ、僕ってのは」とボビイは、苦々しげに言った。
 彼は、下をのぞきこみながら、深淵のふちをまわった。はるか眼下に海が泡だっていたが、そこに飛びこんだボールが、すべて失くなるというわけではなかった。上の方は、傾斜が急だったが、下に行くにつれて、なだらかになっていた。
 ボビイは、ゆっくりとふちを歩いた。かなり簡単にはい下りて行かれる所が一カ所あるのを、彼は知っていた。
 突然、ボビイは、身体をこわばらせると、相棒に呼びかけた。
医師(せんせい)、ちょっと。あれ、なんだと思います?」
 四十フィートほど下に、古い洋服らしいものが黒っぽく見えた。
 医師は、ハッと息をのんだ。
「なんてこった」と、彼は言った。「誰かが落ちたんだ。下りてって見なきゃならんな」
 寄りそいながら、二人のうちではいくらかがっしりしたボビイが医師に手をかして、二人は、岩を這い下りて行った。ついに彼らは、不吉な予感をあたえた黒っぽいかたまりに達した。それは、四十前後の男で、意識はなかったが、まだ呼吸(いき)をしていた。

……冒頭より


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