「大いなる遺産(上下)」

ディケンズ/山本政喜訳

(上)エキスパンドブック 763KB/ドットブック 308KB/テキストファイル 252KB

(下)エキスパンドブック 713MB/ドットブック 290KB/テキストファイル 226KB

各500円

クリスマスイブの夕暮れ、鍛冶屋の少年ピップは足かせを付けた脱獄囚に捕まり、やすりと食い物をもってこいと脅かされる。このときの恐ろしい経験はあとあとまで尾をひく……田舎暮らしのピップに、降ってわいたように莫大な遺産相続の話がころがりこむ。送り主は誰なのか、世話になっている異様な金持ち夫人のミス・ハヴィサムか? ピップはミス・ハヴィサムの養女エステラへのかなえられない思いを胸にロンドンに出る。だが友人もでき、都会生活にうつつをぬかすピップのまえに、謎の人物が姿をあらわす……話は急転直下、緊迫の度をまし一気に終末へ。皮肉とユーモア、ミステリーと冒険活劇が一体となったディケンズ晩年の傑作。 エキスパンドブックは挿絵入り。

チャールズ・ディケンズ(1812〜70)英国ポーツマスに生まれる。幼い頃から本好きで向学心の強い少年だったが、貧窮のため独学。議会報道記者として経験を積み、「ボズのスケッチ」を手始めに小説を書きはじめる。以後、ユーモアを交えた哀感のこもった作風でヴィクトリア朝の代表作家に。社会悪に対する告発は革命なしの社会改革に貢献したとも評される。代表作「ピクウィック・ペイパーズ」「オリヴァ・トゥイスト」「デヴィッド・コパーフィールド」「二都物語」「骨董店」「クリスマス・カロル」など。

立ち読みフロア
 私の父方の苗字(みょうじ)はピリップで、私の洗礼名はフィリップという。しかし私は幼い頃、舌がよくまわらなかったので、両方を一緒にして、ピップと言っていた。そのため私は自分のことをピップと呼び、まわりからもピップと呼ばれるようになった。
 父方の苗字をピリップだと言うのは、父の墓石と、鍛冶(かじ)屋のジョウ・ガージャリと結婚した私の姉の話を根拠にしてである。父と母の顔を見たことはないし、どちらの肖像も(父母の時代は写真ができるずっと前だったので)見たことがないので、父母がどんな風な人だったかということに関する私の最初の空想は、おかしなことだが父母の墓石から引き出してきたものであった。父の墓石に書いてある文字の形から、父は肩幅が広い、がっしりした、色の黒い男で、髪の毛が縮れていて黒かったという、奇妙な確信を私は持っていた。「及び上記の妻ジョージアナ」という碑銘の文字と恰好(かっこう)からは、私の母はそばかすがあって病身だったに違いない、と子供らしく決めこんでいた。それぞれ高さ約五十センチの、五つの小さな菱形(ひしがた)の石が、父母のお墓のそばにきちんと一列に並んでいて、私の弟五人の聖なる思い出となっていた――弟たちは生計を得るというあの万人共通の苦闘を試みることをはなはだ幼くして放棄した――そのため私は、弟たちはみんな両手をズボンのポケットにつっこんで仰向けに寝たまま産まれてきたのだ、そしてこの世に出てきてもその手を出さなかったのだという信念を宗教的に抱くようになった。
 私たちの郷土は河沿いの低い沼沢地で、河がうねって流れている。そのため海から三十五キロ弱はあった。物ごころついてから最初の最も生々しい明白な印象は、忘れもしないあるうすら寒い夕暮れの体験だと思う。その時に私がはっきり知ったことといえば――この教区の故人フィリップ・ピリップとその妻ジョージアナは死んで埋葬されていたということだ。また前者の幼児たち、アレグザンダ、バーソロミュー、エイブラハム、トバイアス、ロウジャの五名も埋葬されていた。墓地の向こうの、堤防と小丘と水門で区切ってあり、あちこちで牛が草を食べている陰気で平坦(へいたん)な荒地は、沼地であった。その向こうの低い鉛色の線は河であった。はるかかなたの風が吹きおきてくるもとの荒涼たる風のふしどは海であった。そしてそれ全部がこわくなって泣きはじめていた小さな子供がピップであった。
「声をあげるじゃねえぞ!」と恐ろしい声が聞こえ、教会の玄関の側の墓石の間から一人の男がとびだして来た。「静かにしろ、小僧め、でないとのどを切っちまうぞ!」
 粗末な灰色の服を着て、片足に大きな足枷(あしかせ)をつけた、恐ろしげな男。帽子はかぶらず、靴は破れて、古いぼろを頭にまきつけた男。水にぬれ、泥にまみれ、石につまずいて足をひきずり、火打ち石のかけらでけがをし、いらくさに刺され、いばらにひっかかれた男。彼は片足をひき、がたがたふるえ、眼をいからせて、どなりつけた。そして私のあごをつかまえたときにはその口の中で歯がカチカチと鳴っていた。
「あっ! のどを切らないで下さい」と私は恐怖の中で哀願した、「どうかそれだけはやめて下さい」
「名前を言え!」とその男が言った、「早く!」
「ピップです」
「もう一度」とその男は私をにらみつけて言った、「ちゃんと言え!」
「ピップ。ピップです」
「お前の住んでる所を教えろ」とその男が言った、「そっちを指差すんだ!」
 私は教会から二キロばかり離れた、はんの木や刈込み木の間の平坦な海岸地の、私の村のある方角を指差した。
 その男は、しばらく私をじっと見てから、私をさかさにして、ポケットをからにした。しかしポケットにはパン一切れしかなかった。教会がもとの位置に戻った時に――というのは、その男はひどくがむしゃらで強いので、教会を私の眼の前でさかさまにし、私はその尖塔(せんとう)を足の下に見ていたからである(ピップがさかさまにされたので、ピップの眼にはそのように見えたわけである)――私は高い墓石の上に腰かけさせられていて、その男がパンをがつがつ食べている間、ガクガクと震えていた。
「おい小僧め」とその男が唇をなめながら言った、「とてもふっくらした頬(ほ)っぺたをしてるな」
 たしかに頬(ほお)はふっくらとしていたと思う。しかし私はその年の割には小さくて、弱々しかった。
「いまいましいな、おまえを食えねえようじゃ」とその男は脅かすように頭を振って言った、「食ってやりてえよ!」
 私は食べられないようにという願いを一心にのべて、その男が私を腰掛けさせた墓石にますますしっかりとしがみついた。一つにはそれから落っこちないために、一つには自分が泣きださないために。
「そこでオイ!」とその男が言った、「お前のおふくろはどこにいる?」
「あそこです」
 その男ははっとしてかけだし、すぐにたちどまって肩越しにふりかえった。
「あそこです!」と私はこわごわ説明した、「及びジョージアナ。あれが僕のお母さんです」
「なあんだ!」とその男は後退(あとずさ)りながら言った、「そしておふくろと並んでるのがおやじだな?」
「そうです」と私は言った、「お父さんもです。この教区の故人です」
「ふん!」とその男は考えこんでつぶやいた、「今誰と一緒にいるんだ――そこでお前は親切に生かしてもらってるとしてさ――おれはまだ生かしておく気にはなっていねえぞ」
「姉さんです――ジョウ・ガージャリ――鍛冶屋のジョウ・ガージャリの妻です」
「鍛冶屋だって?」とその男は言って自分の足を見おろした。
 けわしい目つきで自分の足と私を何べんとなく見てから、私の腰掛けている墓石に近付いてきて、私の両腕をつかまえ、私をできるだけ後ろへのけぞらした。そのため男の眼はとても強く私の眼を見おろし、私の眼がとてもたよりなく男の眼を見あげるようになった。
「なあオイ」とその男が言った、「問題はお前が生きて帰れるか帰れないかということだぞ。お前はやすりがどんなもんだか知ってるか?」
「知ってます」
「それから兵糧(ヴィトルズ)(食べものという意味の卑語)がどんなもんだか知ってるか!」
「知ってます」
 その男はたずねるたびに、私に一そう大きな危険を感じさせるために、私をすこしずつ後ろにのけぞらした。
「やすりを一本もってこい」また私をのけぞらして、「それから兵糧(ヴィトルズ)をもってこい」また私をのけぞらして、「おれんとこへ両方をもってくるんだぞ」また私をのけぞらして、「そうしないとお前の心臓と肝臓をえぐりだしちまうぞ」男はもう一度私をのけぞらした。

……巻頭より

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