「見つめる目」

ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳

ドットブック版 255KB/テキストファイル 114KB

500円

車椅子暮らしを強いられた60歳になる全身不随のジャネットに残された希望は、太陽と青空と息子の声だけだった。口もきけず、字も書けなかった。手まねで合図も送れなかった。それなのに情夫とグルになった嫁に息子が毒ガスで殺されそうになっていることを知ったのだ。できるのは「まばたき」によるイエスとノーの合図だけ……この表題作「見つめる目」のほか、「殺しの足音」「九一三号室の謎」を収めたアイリッシュ傑作短編集第4弾。

ウィリアム・アイリッシュ(1903〜68) ニューヨーク生まれ。コロンビア大学でジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学は中退。34年からミステリ短編を雑誌に書き始め、42年の長編「幻の女」で一躍サスペンス・ミステリの人気作家となった。哀愁味あふれる美しい文体から「サスペンスの詩人」と呼ばれたりする。本名コーネル・ウールリッチ名義で書いた作品も多い。

立ち読みフロア
 その家は郊外住宅ふうの住みごこちのよい二階建で、それなりの地所もちゃんとついていた。隣りの家にちかすぎてプライバシーが侵害される心配もなく、かといって、はなれ小島の淋しさを感じさせるほど孤立してもいなかった。木立のすきまをぬって、あるいは芝生をくぎっている生垣の垣根ごしに、四方の家々が眺められる。しかしそのどの家にしても、一軒そっくりがまる見えということはなかったし、それらの家からも、こっちがそっくり丸見えになることはなかった。
 その家には表と裏にそれぞれポーチがあり、支柱には蔓薔薇(つるばら)がはわせてあった。
 昼さがりのこと、ミラー夫人のジャネットは、裏のポーチの自分の椅子に腰をすえていた。家の裏がわが西にむいていて、午後の陽射しがあたるからだった。午前中は表のポーチに、午後は裏のポーチに坐ることにしていた。ずっと以前から、彼女の生活は必要最低限のぎりぎりの線まで省略されていたのだ。暖かい陽ざしを肌に感じ、頭上にひろがる青空をながめ、ヴァーノン・ミラーの声をきくこと――それが生活のすべてであり、彼女に残されたぎりぎりのものであった。他のものが全部奪いさられた今でも、この三つさえ残っていれば、彼女はそれ以上を求めなかった。
 なんの不平もなく――いやむしろ満ち足りた幸福な気持ちで、足から膝までをきちんと毛布にくるみ、ゴム車輪のついた自分用の椅子に坐っている彼女だった。
 暖かい陽ざしは肌に感じることができたし、青空もポーチの柱ごしに見えている。それから彼の声だが、これもやがて聞こえてくるだろう── まだすこし時間がある。どっちにしても、それはあとのお楽しみというわけだ。
 彼女は六十才になる。すべすべした薔薇(ばら)色の頬、雪白の髪、なごやかに澄んだ青いひとみ。ここ十年間というもの、彼女はまったく絶望的な全身不随の状態をつづけていた。
 床を歩きまわったり、階段を上り下りしたり、自分の手で髪をとかしたり、顔を洗ったり、口紅をぬったり、ものを食べたり、(意識だけはいまだにはっきりしているが)それを口から言葉にだして表現したり――そんなことはもう遠い昔の、前世のできごとのように思われた。そうしたことはみんな悔やんでもせんない過去のものになってしまっていた。彼女はしいて自分を鍛錬することにより過去を悲しまないようになっていた。
 それを成しとげるまでに、彼女がどんな思いを味わったかは、だれも知らなかった。どんな煉獄の苦しみに耐えねばならなかったか、誰ひとり知る者はいなかった。だが彼女はその難局をきりぬけ、たたかいに勝った。残されたものだけに、しっかりとしがみついていた。たとえ邪悪な蕃(ばん)族の神だとて、その彼女に残された哀れな遺物を奪いとるほど残酷ではあるまい。太陽と、青空と、ヴァーノンの声、それらが彼女には残されていた。彼女は諦めとともに、それらを甘受し満足した。
 そういったわけで、傾きかけた陽ざしをあびながら、彼女は蔓薔薇(つるばら)の巻きひげのおくに、じっと身動きもせず坐っていた。人間のかたちをした一個のものが、それなりの幸福を貪(むさぼ)っている姿だった。

 *

 家の玄関がわで呼鈴がなり、ヴァーノンの妻であるベラの足音が二階から降りていくのがきこえた。この呼鈴の鳴るのを予期していたのか、あるいは二階の窓から相手のすがたを見てしまったのか、妙にあわただしげな、せかせかした足取りだった。とすると、物売りの商人ではなく、顔見知りの人間にちがいない。
 ジャネットは裏の椅子にすわったまま、玄関のドアがあいて、すぐまた素速く閉される音をきいた。しかし、つづいて聞こえてきたのは、あの騒々しい女同士の挨拶ではなかった。低くおしころした男の声だった。だが、いくら声を殺しても、ほかの感覚を失っていらい減退するどころかますます冴えてきた彼女の耳には、その会話を聴きわけるのは容易なことだった。
「ひとりかい?」
 それにたいして、ベラの声が答える。
「そうよ。だれにも見つからなかった?」
 最初にきこえた用心ぶかいかすれ声は、いつもの声、ヴァーノンの声ではない。こんなに早く帰ってくるはずはない――まだ一時間はたっぷりあるのだ。とするといったい誰の声だろう? 男――なら、もちろんヴァーノンの友達だ。彼女はヴァーノンの友達とはみんな知合いだったのだ、その声を一人ずつあてはめようとしてみた。だが、そのどれでもなかった。友達が、こんな時間に来るはずはない。みんなヴァーノンとおなじように下町の工場で働いている時刻なのだ。
 なあに、いまにわかるだろう。ヴァーノンの友達なら、まっさきに彼女のそばへきて「やあ今日は」と声をかけたり、「おばあちゃん、工合はどうだね?」と容態をきいてくれたり、「つまんないものだけど」と手土産を膝へのせてくれたりするのが普通である。嫁のベラが客をポーチへ連れてくるか、でなければ、車椅子を客のいるところまで押していってくれるのだ。彼女は人に会うのがすきだった。それは例の必要不可欠な三つの楽しみ以外に、彼女にゆるされたささやかな贅沢だった。
 しかし、ベラと客は、家を二分する廊下から裏のポーチへ出てくると思いのほか、途中の居間へはいってしまった。そして居間のドアが閉まったあとは、もうなんの物音もきこえなくなった。
 彼女は理解にくるしんだ。これまで、男の人といっしょのときに、ベラはあんなふうにドアを閉めきったことはない。多分うっかりしていたのだろう。うわの空で閉めてしまったのにちがいない。それとも、わたしかヴァーノンを驚かせようとして、なにかひそかに趣向を用意しているのかもしれない。しかし、ヴァーノンの誕生日はとっくに過ぎてしまったし、彼女自身のは来年の二月のはずではないか――
 根気よく待っていたが、ドアはあく気配もなかった。客は出てきそうもないし、彼女の車椅子も運んでもらえそうにない。彼女は失望して、ふっと小さく溜息をもらした。
 すると突然、なんの前ぶれもなしに、二人が裏手の台所へはいってきた。台所には裏のポーチを見渡せる窓がついていた。彼女の坐っているすぐ横手だった。ぐっと眼玉をうごかせば、彼女のいるところからでも、台所の一隅がのぞきこめた。もちろん彼女だって眼玉を動かすことぐらいはできた。
 ベラがまず姿をあらわし、つづいて男がはいってきた。ベラは台所のテーブルになにかを置くと、ばりばりがさがさ紙の音を立てながら、それを剥がしはじめた。紙で包装したものらしかった。ではやっぱり、二人が取りだそうとしているのは、なにかの贈り物にちがいない。
 ベラの声がきこえた。
「こんなもの、どうして思いついたの?」
 感嘆したような、お世辞めいた声音だった。
 男がそれに答えて、
「ロンドンやパリで、こいつを市民たちに配給したって話を新聞で読んだんだ。いまにも戦争になりやしないかって、みんなが気をもんでた時分のはなしさ。おれの知合いの一人が当時あっちへいっていて、何個か持って帰ってきた。そいつを失敬してきたってわけさ」
「効きめはあるの?」
「うむ、これまで頭を捻(ひね)ったなかじゃ、こいつがいちばん上策だろう」
「そうね。これまでの手は駄目だものね」
 とベラが答えた。
 その会話のあいだも、包み紙をはがす音は休みなくつづいていた。
 とうとうそれが止むと、一瞬、あたりがしーんと静まりかえった。やがてベラの声がした。
「へんな格好をしてるわね」
「しかし、効き目はあるんだぜ。恰好なんか問題じゃない」
 紙の音がもう一度きこえた。
「なぜ二つも持ってきたの」
「一つは、婆さん用さ」
 ジャネットの胸に、かすかな期待の灯がともった。かれらは何だか持ってきてくれたのだ。プレゼントだか、記念品だかを。ベラの歯がゆそうな声がきこえた。
「どうして? なぜ二人いっしょじゃいけないの?」
 男はどなるように、
「頭がわるいな。そいつだけはぜったいにまずいんだ。婆さんは、いってみれば、こっちのアリバイみたいなもんだぜ。婆さんの身になにごともおこらなけりゃ、たんなる事故ですむ。二人いっしょじゃ、いかにも故意(わざ)とらしいじゃないか。こっちの尻に火がつくような真似はごめんだな。一家三人のうち一人とあれば、なんとかいいくるめることもできる。だが三人の内二人じゃいくらなんでも臭いということになる。いいかい、あんたはあの男と一緒の部屋にいるんだぜ。婆さんは廊下をへだてた反対がわの部屋だ。あんたの隣にいるあの男が眠っちまっているのに、あんた自身は大丈夫。そして、ドア二枚へだてた向うの部屋にいる婆さんが、やっぱりいかれちまったとなれば、どうみたって変じゃないか」
「わかったわ」
 ベラは怨めしそうに納得した。
「でも、あたしの身にもなってちょうだいよ。あの婆さんに朝から晩までつきっきりで、ずいぶんと辛抱したのよ――」

 ジャネットの上にそそいでいた陽射しが一変したように思われた。それは冷たく、不吉でさえあった。どきんどきんと心臓が肋骨をうつ音が聞こえるような気がし、恐怖にひろがった鼻孔をとおして、呼吸がせわしなく乱れた。

……「見つめる目」冒頭より


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