「マルタの鷹」

ダシール・ハメット/宇野利泰訳

ドットブック版 227KB/テキストファイル 198KB

500円

誘拐された妹を取り戻してほしいと一人の女から依頼を受けたサム・スペードは、女の希望どおりに相棒のマイルズに一人の男の跡をつけさせる。だが、マイルズは射殺され、肝心の男も死体となって発見される。嫌疑をかけられたスペードは依頼主の女を追う…やがて明らかになる「マルタの鷹」と呼ばれる謎の彫像をめぐる血で血を洗う争奪戦…ハードボイルドの金字塔!

参考 松岡正剛の千夜千冊『マルタの鷹』

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「血の収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。他の代表作「影なき男」「コンチネンタル・オプ」「死刑は一回でたくさん」など。

立ち読みフロア
 サミュエル・スペードはごつごつした顎が長く尖って、先端がVの字の格好をしている。その上のよく動く口もやはりVの字、鼻翼《びよく》の切れこんでいるところも、小さいながらVの形である。イエロー・グレーの目だけは水平だが、そこにまたVの字のモチーフがあらわれていて、鉤鼻《かぎばな》の上に刻まれた二本の縦じわから外側に向けて、ふとい眉がVの字なりに伸びている。薄茶色の頭髪にしても、左右のこめかみの上が大きく禿げあがっているので、生えぎわがまたVの格好であり、そしてこのような容貌の全体が、陽気な金髪の悪魔といったところだった。
 エフィ・ペリンが顔を出したので、彼はいった。「何か用か、エフィ?」
 エフィは日焼けしたような肌、ひょろ長い背丈が目立つが、ぴったり身に着けた淡褐色のウール地のドレスが、しっとりした感じをあたえていた。血色のいい、男の子のような顔立ちに、いたずらっ児めいた茶色の目。その彼女が、うしろ手に閉めたドアにからだを凭《もた》せかけて、「ご面会よ。ワンダリーって女のかた」
「依頼人か?」
「そうらしいわ。会ったほうがいいわよ。すごい美人ですもの」
「じゃ、お目にかかるか」スペードがいった。「お通ししてくれ」
 エフィ・ペリンはまたドアをあけて、事務室に一歩戻り、ノブから手を離さないままで、「どうぞ、おはいりになって、ミス・ワンダリー」といった。
 声が、「ありがとう」と応えた。発音がはっきりしているから聞きとれたが、でなかったら、なんといったか判らぬほどの低い声だった。はいってきたのは若い女性で、ためらいがちな足どりで近づくと、コバルト・ブルーの目でおずおずと、しかしまた、相手の様子を窺《うかが》うように、スペードを見つめた。
 女はすらっとした長身、しなやかなからだの姿勢が正しく、胸の膨らみがゆたかで、脚が長い。それでいて手と足は小さかった。服装は目の色に合わせて、濃いのと淡いのと二様のブルーで統一していた。ブルーの帽子からのぞく巻き毛は暗赤色だが、ふっくらした唇の色はずっと明るい赤だった。はにかみがちに微笑を見せると、三日月形の口もとから白い歯がこぼれた。
 スペードは立ちあがって会釈をし、指のふとい手で、デスクわきのカシ材の椅子を勧めた。立ちあがった彼の背丈はゆうに六フィートを超え、肩の幅も厚みも目をみはるばかりなので、からだ全体が円錐体を逆さにしたところを思わせ、プレスしたばかりのグレーの上着も身についていない感じだった。
 ミス・ワンダリーは低い声で、「ありがとう」ともう一度いうと、木の椅子の端に腰を載せた。
 スペードも回転椅子に戻って、それを四分の一ほど回転させ、彼女と向きあうと、愛想のいい笑顔を見せた。唇を結んだままの微笑なので、顔のあらゆる個所のVの字が、よりいっそう長く伸びた。
 閉めたドアの向こうから、エフィがタイプライターを打つ音がひびき、近くのオフィスで使用する電動機械の唸りが鈍く聞こえてくる。デスクの上では、吸いがらがいっぱいの真鍮の灰皿に、吸いかけのタバコがくすぶっていた。
 そしてその灰が、黄色いデスクの上、緑色の吸取紙と書類に点々ととび散り、淡黄色のカーテンをかけた窓が八、九インチほど開いているので、アンモニアの臭いのする風が吹きこんできて、その灰を躍らせていた。
 ミス・ワンダリーは灰の動きを見つめているのだが、その目には落ち着きがなくて、椅子の端に載せた腰をいまにも立ちあがりそうに浮かせ、黒っぽい手袋をはめた両手で、膝の上の平べったい黒皮のハンドバッグを握りしめていた。
 スペードは回転椅子を左右に動かしながら、「ご用件はなんでしょうか?」と訊いた。
 彼女はハッとしたように、あらためてスペードを見つめ、ごくりと唾をのみこんでから、いそいでいった。「あの、お願いできましたら……ええ、わたくし……その、お願いできるかと思って……」あとは、きらきら光る歯で下唇を咬みしめるだけで、ひと言もいわなかったが、ダーク・ブルーの目が言葉以上の真剣さで何かを訴えていた。
 スペードは微笑の顔で、彼女の訴えを了解したかのようにうなずいて見せてから、明るい調子でごく無造作に、「では、お話をうかがいましょう。初めからがいいですよ。そのほうが、どんな処置をとったらよいかが判りますからね。できるだけ初めから」
「ニューヨークのことでした」
「なるほど」
「最初に妹が、どこで彼に会ったのかは知りません。ええ、ニューヨークのどこだったかは判らないという意味です。妹はわたくしよりも五つ年下で、まだ十七になったばかり――そしてわたくしたちには、共通のお友だちがありません。姉妹にしては、親しみが少なかったともいえましょう。パパとママは現在、ヨーロッパに滞在中なのでいいようなものの、こんなことが耳にはいったら、あまりの悲しみに死んでしまうかもしれません。ですからわたくし、両親が帰国するまえに、妹をニューヨークに連れ戻さなければならぬと考えました」
「なるほど」彼はいった。
「パパとママは、来月の一日に帰国します」
 スペードの目が輝いて、「すると、まだ二週間ありますね」といった。
「わたくしは妹がどうしてしまったのか、何も知りませんでした。ですから、あの子の手紙で事情を知ったときは、気が狂うのかと思いました」唇がわなわな震えて、両の手で膝の黒皮のハンドバッグを握りつぶした。「あの子が何か警察沙汰になるようなことをしでかしたのではないか、それとも、あの子の身に恐ろしい災難がふりかかったのか、いったい、警察へ届け出たものかどうかと、わたくしは居ても立ってもいられない気持でした。といって、相談相手もいませんし……わたくし、どうしたらいいのでしょうか?」
「むろん、あなたに処理できることではない」スペードがいった。「そこへ、妹さんの手紙が届いたのですね」
「ええ。そこで、わたくし、すぐに電報を打って、ニューヨークへ戻るようにいってやりました。宛先はここの中央郵便局留めです。妹は、それしかアドレスを教えないからです。で、わたくし、一週間待ちましたが、返事の電報も、様子を知らせる便りも送ってきません。パパとママの帰国の日が近づきますし、わたくし、我慢しきれなくなって、このサンフランシスコまで出てきてしまいました。あらかじめ手紙で知らせておきましたけれど、あんなこと、しなかったほうがいいのでしょうか?」
「そうかもしれませんな。どうしたらよいかを知るのは、だれにだって容易なことではないのです。では、妹さんはまだ見つからないのですね?」
「ええ、見つかりません。ホテルはセント・マークだと書いて、いっしょにニューヨークへ帰るのがいやでも、とにかく一度、話しあいたいといってやったのですが、三日間待っても顔を見せないどころか、連絡もしてきませんの」

……「
一 スペードとアーチャー」より

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