「白い牙」

ジャック・ロンドン/山本政喜訳

エキスパンドブック 642KB/ドットブック 222KB/テキストファイル 174KB

500円

犬の血をうけた狼「ホワイト・ファング(白い牙)」が幾多の苦難を乗り越えていく物語。凍てつく北国のきびしい暮らしと自然の描写は他の追随を許さない。放浪と苦難のうちに作家生活をすごしたアメリカの作家ジャック・ロンドンの「ユーコン物語」の代表作であり、動物文学の傑作。姉妹編「野性の叫び」もどうぞ。エキスパンドブック版には上の表紙のような挿し絵を10点ほど掲載しています。

ジャック・ロンドン(1876〜1916) サンフランシスコ生まれ。幼いころから働き、アラスカや南洋諸島を放浪。カリフォルニア大学に入学したが、学資は自分で稼いだ。アラスカのゴールド・ラッシュに加わり、これが作家としての契機になった。28歳のとき「野性の叫び」で認められ、以後人気作家となって20年間に多数の作品を発表したが、41歳でみずから命を絶った。代表作「野性の叫び」「白い牙」。アメリカ本国はもちろんだが、諸外国で最もよく読まれているアメリカ作家でもある。

立ち読みフロア

 エゾマツの暗い森が、凍った水路の両側できむずかしい顔をしていた。木々は先程吹いた風に白い霜の覆いをはぎとられていた。そしていまやうすれてゆく光の中に、黒々と不吉に、互いにもたれかかっているように見えた。
 茫漠たる沈黙が地上一帯を支配していた。土地そのものが荒涼の極みで、生命もなく動きもなく、いかにも淋しく冷たいので、その精神は悲哀さえも超えていた。そこには笑いを思わせるものがあったが、いかなる悲哀よりも恐るべき笑い――スフィンクスの冷笑のように喜びのない笑い、霜のように冷たく、絶対確実性のもつきびしさに通ずる笑いであった。それは生命の無効と生活の努力を嘲笑する永遠の、専横でひとにもらされぬ智恵であった。それは荒野、未開で心臓の凍りついた北国の荒野であった。
 しかしそこに生命があった《ヽヽヽ》のである、ちゃんとこの土地に、しかも挑戦的に。凍りついた水路を狼のような犬の一隊が骨折りながら下っていた。
 犬の密な綿毛は霜でむすぼれていた。犬の吐息は口から出るとすぐ空中で凍り、水蒸気のしぶきとなってとびだして、胴体の毛にとまり、かたまって霜の結晶になった。革の挽き具が犬にかけてあり、挽き革が犬をその後ろに曳いている橇《そり》にむすびつけていた。
 橇には滑子がついていず、丈夫な樺の皮でこしらえてあって、底の全面が雪の面につくようになっていた。橇の前端は巻物のようにまきあげてあって、前面に浪のようにおしよせてくる柔かい雪の津浪をおさえつけて下にしくようにしてあった。橇の上には細長い長方形の箱がしっかりと結えつけてあった。橇の上にはまだほかのものがあった――毛皮、斧、コーヒー・ポット、フライ・パンなどが。しかし主だったものはその細長い長方形の箱で、場所をいちばん大きくとっていた。
 犬の先にたって、巾の広い雪靴をはいて、一人の男がせっせと歩き、橇のあとからもう一人の男が歩いていた。
 橇の上の箱の中には、自分で骨折ることのなくなったもう一人の男がねていた――荒野に征服され、たたきのめされて、ついに再び動きもあがきもしなくなった男が。動きを好むことは荒野のならわしではない。生命は動きであるから、生命は荒野にとって犯則である、それで荒野は常に動きを破壊することをねらっている。
 荒野は水を凍らせて水が海へそそぐのをさまたげ、木々の樹液をおいだしてしまう、それでついには木々もその強いしんまで凍ってしまう。そして何よりもいちばん兇暴にひどく、荒野は人間をふみにじり圧しつぶして、屈従させる――人間、それは生あるもののうちでいちばん落着きがなく、「すべて動きは結局動きの停止にいたらねばならぬ」という定言にいつも反抗している。
 しかし先頭としんがりに、まだ死んでいない二人の男が、畏れず屈せず、せっせと歩いていた。二人の体は毛皮と柔かくなめした革につつまれていた。まつ毛と頬と唇が、凍った息の結晶に覆われて、顔の見わけがつかなかった。そのために二人は、幽霊の仮面劇、すなわち何かの幽霊の葬儀をしている妖怪世界の葬儀屋のようであった。
 しかしそういう状態にあっても二人は、荒涼と嘲弄と沈黙の国に突入した人間、空間の奈落のように縁遠い異質の脈搏のない一つの世界の力と闘っている、巨大な冒険に夢中の、ちっぽけな冒険者であった。
 二人は体のはたらきのために呼吸する以外にはものも言わないで旅をつづけた。八方これ寂莫、それが実体のある存在として二人にせまってきた。それは深海の強大な水圧が潜水夫の体に影響するのと同様に二人の心に影響した。それは果てしのない広漠さと変更を許さぬ命令のもつ重さでもって二人を押しつぶした。それは二人を押しつぶして彼らの心のいちばん奥底においこみ、そこから、ぶどうの汁のように、人間の魂のいつわりの熱情と有頂天と不当な自尊をすっかりしぼり出してしまった。そこでおしまいに二人は、自分らは弱い巧智とわずかな智恵でもって、偉大な盲目の四大〔地水火風〕と自然力の作用との相互作用のただなかを動きまわっている、有限でこまかい、微小片であることをみとめた。
 一時間が経ち、また一時間が経った。太陽のない短い日のあお白い光がうすれはじめていた。その時かすかな遠くの叫び声がしずかな空気に乗ってやってきた。それは急速に高まって、ついにその最高潮に達すると、そこで震えと張りをつづけ、やがて徐々に消えていった。
 それに一種の悲哀をこめた獰猛《どうもう》さと飢餓のための熱望といったようなものがこもっていなかったならば、それは迷った魂の号泣であったかもしれない。先に立った男が頭をめぐらしたが、やがてその眼が後ろの男の眼と出あった。そこで二人は、例の狭い長方形の箱越しに、お互いにうなずき合った。
 また叫び声が起こって、針のような鋭いひびきで静寂をつんざいた。二人ともその叫びの出所をつきとめた。それは後方の、二人が通ってきたばかりの雪野原のどこかであった。またそれに答える叫びがおきた、それも後方で、二番目の叫びより左によっていた。
「やつらはおれたちをつけてるよ、ビル」と先の男が言った。
 その声はしわがれて非現実的であった、しかもこの男はたしかに努力してものを言っていたのであった。
「肉がないんだね」と仲間が答えた、「ここ数日兎のあしあと一つ見つけない」
 そのあと二人はもう何もいわなかった、しかしその耳は、背後で起こりつづける追求の叫びに対して敏感であった。
 暗やみが降りてくると、二人は水路のふちのエゾマツの森の中に犬を追いこんで、野営を張った。火のそばにおいた棺《ひつぎ》が、座席と食卓の役に立った。橇犬たちは、火の向う側にかたまって、お互いに唸りあったりけんかしたりしたが、暗やみの中へさまよい出てゆこうとする様子は見せなかった。
「おれは思うんだが、ヘンリ、やつらは天幕のごく近くにいるぜ」とビルが言った。
 火のそばにつくばって、氷を一塊なげこんでコーヒー・ポットの沸きかえりをしずめていたヘンリはうなずいた。しかし棺に腰かけてものを食べはじめるまで何もいわなかった。
「こいつらは命の安全な場所を知ってるよ」とヘンリは言った、「こいつらは餌食になるより餌食を食った方がいいというところだ。こいつらは相当賢いよ、この犬どもは」
 ビルは頭を振った。「いや、おれにゃわからん」
 相棒はけげんそうにビルを見た。「お前が犬は賢くないてなことをいうのを聞いたのははじめてだ」
「ヘンリ」と相手は食べかけていた豆を念入りにかみながら言った、「おれが餌をやっていた時の、この犬どものあばれように気がついたかい?」
「いつもよりひどくあばれたね」とヘンリが承認した。
「犬は何頭いたっけね、ヘンリ?」
「六頭さ」
「さて、ヘンリ……」ビルは自分の言葉をいっそう重大にするために、しばらく話をやめた。
「さっき言ったように、ヘンリ、おれたちの犬は六頭だ。おれは袋の中から魚を六匹とりだした。犬に魚を一匹ずつやった、ところが、ヘンリ、魚が一匹足りないんだ」
「勘定をまちがえたんだよ」
「犬は六頭だ」と相手は冷静にくりかえして言った。「おれは魚を六匹とりだした。片耳《ワンイヤ》〔犬の名〕は魚にありつけなかった。おれはあとで袋のところへ戻ってきて、あれに魚をくれてやったよ」
「おれたちの犬は六頭だけだよ」とヘンリが言った。
「ヘンリ」とビルはつづけて言った、「みんなが犬だったと言うのじゃないが、魚を手に入れたやつは七頭だったよ」
 ヘンリは食べるのをやめて、火をすかしてみて、犬の数をかぞえた。
「今いるのは六頭きりだ」
「おれはいま一頭のやつが雪の上をにげてゆくところを見かけた」とビルが冷静にきっぱりと言った。「おれは七頭見たよ」
 ヘンリはあわれむように相手を見て言った、「この旅が終ったらおれはむしょうに嬉しいだろうよ」
「それはどういう意味だい?」とビルがたずねた。
「このおれたちの荷物がお前の神経にさわりはじめた、そしてお前にいろんなものが見えはじめた、という意味だよ」
「おれはそのことを考えた」とビルはまじめに言った、「そこで、おれはそいつが雪の上をかけさるのを見つけたときに、雪の上を見るとそいつの足あとが見つかった。それから犬をかぞえてみるとやっぱり六頭いた。その足あとはまだ雪の上にあるよ。お前はあれを見たいと思うかね? おれが見せてやるが」
 ヘンリは答えないで、だまったままもぐもぐかみつづけた、そしてとうとう食事を終ると、最後のコーヒーを一杯のみほした。そして手の裏で口を拭いて言った。
「それじゃ、お前の考えではそいつは――」
 暗やみの中のどこからかきこえてくる、はげしくも哀しげな、長く号泣する叫びが、その言葉を中絶させたのであった。ヘンリは話を中絶してそれをきいていたが、それがすむとその叫びの方へ手を振って言葉を終った。「――犬のうちの一頭だというのか?」
 ビルはうなずいた。「おれはほかのことよりそのことをいまいましく考えてたんだ。お前自身あの犬の騒ぎに気がついたろう」
 つぎつぎに起こる叫びと、それに答える叫びが、静寂を狂人病院に変えてしまっていた。八方から叫びがおきてきて、犬どもは恐怖をおもてにあらわしていっしょによりかたまり、あんまり近く火のそばに寄ったので、毛がその熱のためにこげるしまつであった。ビルはもっと薪をなげ足しておいて、それからパイプに火をつけた。
「おれは考えてんだが、お前はちっと弱ってるね」とヘンリが言った。
「ヘンリ……」ビルはしばらく考えこみながらパイプをすって、それから話しつづけた。「ヘンリ、この男の方がお前やおれなんかより、何ぼか運の好いことだろうとおれは考えてるところだ」
 そして自分らが腰かけている箱の方へ親指をつきだして第三の人を指さした。
「お前とおれはね、ヘンリ、おれたちが死んだら、おれたちの死骸に犬が手をつけられないようにしておくだけの石をのっけてもらえれば運が好いというところだ」
「ところがおれたちには、この男のように、人間もかねもそのほかの何もかもないんだ」とへンリが答えた、「長距離葬儀はどうもお前やおれには及びもつかないことだ」
「おれの考えてるのは、ヘンリ、こういう男のことだよ、くににいりゃ閣下だか何だかで、食べものや毛布のことで気をつかうことはなかったんだ、それが何だって神の見すてた地球のはてまで出っぱりまわるんだ――これがどうもおれにはがてんのいかぬことだよ」
「うちにいたらすっかり老年になるまで生きていたかもしれないな」とヘンリが同意した。
 ビルは何かいうつもりで口を開いたが、思いかえして、何もいわないで、八方からまわりにせまってくる暗黒の壁の方を指さした。まったくの暗黒の中にはものの形をしめすものはなく、燃えている石炭のようにぎらぎら光る一対の眼が見えるだけであった。ヘンリは頭でもう一つの一対の眼、さらにもう一つの一対の眼をさししめした。二人の野営のまわりに、光る眼の円陣が描かれているのであった。時折一対の眼が動いたり、見えなくなったかと思うと一瞬の後にまた現れたりした。
 犬どもの不安が増大していた、それで犬は突然に恐怖におそわれた様子で、火のそばへどっと逃げより、人間の脚のあたりにたちすくんだりはいつくばったりした。その場所せり合いのうちに、一頭の犬が火の端にひっくりかえった、そしてそのこげた毛のにおいが空にみちわたると、その犬が痛みと恐怖のために悲鳴をあげた。その騒ぎのために、眼の円陣がちょっとのあいだ落着きなく動き、すこしばかり後退しさえしたが、犬が静かになるとまたおちついた。
「ヘンリ、弾薬がきれたのが運のつきだよ」
 ビルはパイプをふかし終って、夕食前に自分が雪の上に敷いておいたエゾマツの枝の上に、仲間が毛皮と毛布の床をのべるのを手つだっていた。ヘンリはぶつぶつ言って、鹿皮靴のひもをときはじめた。
「薬包《たま》はいくつ残ってると言ったかね?」と彼はたずねた。
「三つだ」という答。「それが三百だといいんだがなあ。そしたらおれはやつらめにものを見せてやるんだが、ちくしょうども!」
 光っている眼の方へ怒ってこぶしをふってから、鹿皮靴をこがさないように火にかざしはじめた。
「それからこの寒気が急に止んでくれるといいと思う」といいつづけた、「ここ二週間も零下五十度だったもの。それにおれはこの旅に出なきゃよかったと思うよ、ヘンリ。おれはこの様子がきらいだ。感じがほんとじゃないよ、なんだか。そこでおれののぞみをいえば、この旅が終ってけりがついて、今頃はお前とおれがフォート・マクガリ〔原地民との交易市場の名〕で煖炉のそばに腰掛けてさ、クリベイジ〔カルタ遊び〕をやっているのだったらいいと思うよ――それがおれの願いだ」
 ヘンリはぶつぶつ言って、床へもぐりこんだ。とろとろと眠ったころ、相棒の声によびさまされた。
「なあ、ヘンリ、あのはいりこんで魚を一匹とったほかのやつだがね――どういうわけで犬どもがそいつに襲いかからなかったのだろう? それがおれには気がかりなんだ」
「お前はあんまり気にしすぎるよ、ビル」とねむそうな答、「お前は以前にはこんなじゃなかった。ただもうだまって眠るんだ、そうすりゃ朝になるとすっかりさっぱりしてるよ。お前は気分が悪いんだ、それでくよくよすることになるんだ」
 二人は一枚の毛布をかぶって添い寝して、はげしい息づかいをしながら眠った。火は衰えきって、光る眼が野営のまわりにひろげていた円陣を圧縮してきた。犬どもは恐怖してかたまり合い、時々一対の眼が近づくと威嚇するようにうなった。一度その騒ぎが大声になったので、ビルが目をさました。そして仲間の眠りをさまたげないように気をつけて床から出て、火に薪をなげ足した。それが燃えあがりはじめると、眼の円陣はずっと遠退いた。ビルは何げなく寄りかたまっている犬をちらと見たが、やがて眼をこすってもっとよく見た。それからまた毛布にもぐりこんだ。
「ヘンリ」と彼は言った。「おい、ヘンリ」
 ヘンリは眠りから眼ざめに移るときにうめいていたが、やがて言った、「こんどはどうしたんだ?」
「何でもないよ」という答、「ただね、また七頭いるんだ。ちゃんと勘定したんだ」
 ヘンリはそのしらせを受け取ったしるしにぶつぶつ言ったが、そのつぶやきはまたもうつらうつらと眠りこむにつれていびきにかわっていった。
 朝になるとヘンリの方が先に眼をさまして、仲間を床からひきずりだした。もう六時だったが、夜明けはまだ三時間の後であった、そしてその暗やみの中でヘンリが朝食の支度にたち働き、ビルの方は毛布をまき、橇に犬をつなぐ支度をした。
「なあ、ヘンリ」とビルがとつぜんにたずねた、「犬は何頭いると言ったっけね?」
「六頭」
「ちがうよ」とビルが勝ちほこって言った。
「また七頭か?」とヘンリがたずねた。
「いや、五頭だ、一頭いなくなった」
「くそッ!」とヘンリは怒って叫び、料理の方はやめて、犬の数を勘定しにやってきた。
「お前の言う通りだ、ビル」とヘンリは結論した、「ファッティ〔ふとっちょ〕がいない」
「それにあいつかけだしたとなると、油をひいた電光みたいにとんでいきやがった。烟《けむり》のために見えなかった」
「見込みはまるきりないな」とヘンリが結論した、「やつらはまるで生きたままのみこんじまうんだからね。きっとあいつは、やつらののどを通るとききゃんきゃんないたよ、いまいましいやつらだ!」
「あれはもとから馬鹿犬だった」とビルが言った。
「しかしどんな馬鹿犬だったって、あんなぐあいに離れていって自殺するほど馬鹿であっていいということはないよ」ヘンリは推理するような眼で残りの犬の群を見わたし、たちまちそれぞれの犬の目立つ特徴を要約した。「ほかの犬はきっとあんなことはしないよ」
「棒でなぐったって火のそばから追払うことはできないさ」とビルが同意して言った、「ファッティにはどことなく具合の悪いところがあると、おれはかねがね考えていたんだ」
 そしてこれが、北国の野道で死んだ犬の墓碑銘であった――もっとほかの多くの犬や、多くの人間の墓碑銘より貧弱ではなかった。

……「第一部 荒野」巻頭より


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