フォークナー短編集

「熊」

フォークナー/赤祖父哲二訳

ドットブック版 152KB/テキストファイル 156KB

500円

アイク少年は10歳になってはじめて、大狩猟隊に加わることを許された。それは滅びゆく原野を背景にくりひろげられる「神話的な老いた熊」との壮絶な闘いだった……この「熊」をはじめ、「古老たち」「デルタの秋」「あの夕陽」「エミリーへのバラ」などフォークナー文学の一端に触れる好個の中短編集。

フォークナー(1897〜1962)アメリカ南部ミシシッピ州生まれ。南部を舞台に醜悪で陰惨な人間心理を克明に書き綴った「ヨクナパトウファ神話(サーガ)」と総称される膨大な作品群で知られる。代表作「響きと怒り」「サンクチュアリ」「アブサロム・アブサロム!」「征服されざる人々」などはすべてこの中に含まれる。

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 最初はなにごともなかった。ただ、かすむような冷たい雨が絶えず降り、十一月も末の夜明けの光が灰色で切れ目なくさし、何匹もの猟犬の声が、夜明けの光のなかのどこかで集中しつつ、彼らの方に向かってきた。そこで、サム・ファーザーズが、少年が初めての銃で、しかもほとんど初めてそれに装填(そうてん)された弾丸で、走る兎を初めて撃ったときのように、彼のすぐうしろに立って彼の肩に触れたので、彼はふるえゆすりだした。寒さのせいではなかった。そのとき、雄鹿がそこへやってきた。雄鹿は視界のなかに現われたのではない、ただそこにいただけであり、亡霊のようには見えず、まるで光がすべて体のなかに凝縮(ぎょうしゅく)し光の源(みなもと)になったみたいに光のなかを動くばかりか、光をまき散らし、いつもの鹿のように人が先に鹿を見たと見えながら、そのほんの一瞬前に人を見て、すでに走っていた。すでにあの最初の高く舞う跳躍を行ない、体を曲げ消えようとしていた。枝角(えだつの)は、あのおぼろげな光のなかでさえも、頭の上におかれ均整を保った小さなゆり椅子(いす)のように見えた。
「さあ、はやく撃ちなせ、おちついて」とサム・ファーザーズはいった。
 少年はその射撃のことをまったく覚えていなかった。彼は、彼の父や父の双生児(ふたご)の兄弟やその父親がそれぞれ生きなくてはならなかったように、八十歳まで生きるだろう。しかし、その射撃の音を聞きはしないであろうし、銃の台尻(だいじり)の衝撃をも思い出すことはないだろう。彼は銃をあとでどうしたかさえ覚えていなかった。彼は走っていた。それから、湿った大地にまだ全速力の姿勢のまま死んだとは少しも見えず横たわる雄鹿を見おろして立っていた。激しくふるえながら立っていた。サム・ファーザーズはまた少年のそばに来て、ナイフをさし出した。「雄鹿の正面から近づいてはいけねえだ」とサムはいった。「死んでなけりゃ足で四つ裂きにされちまうだ。後ろから近づき、まず角をつかむとええ。そうすりゃ、おめえさんが跳びはねて逃げられるまでは、鹿の頭を下におさえられるでがす。それから、片手を下にすべらせ、指で鹿の鼻のあなをひっかけるだ」
 少年はそうした――鹿の頭をうしろに引っぱり、喉(のど)をぴんと張るようにしてから、サム・ファーザーズのナイフでえぐった。サムはかがみ、煙る熱い血を両手にしたたらせてから、少年の顔全体にこすりつけ拭(ぬぐ)った。それから、サムの角笛が湿った灰色の森に何回も何回も響きわたった。彼らのまわりに湧(わ)きかえるような犬どもの波が押し寄せてきた。テニーのジムやブーン・ホガンベックは、犬どもがみな血を味わうと鞭(むち)で追い払った。それから、男たち、ほんとうの狩人(かりゅうど)たち――ライフルで狙(ねら)いそこなったことのないウォルター・ユーウェル、ド・スペイン少佐、老コンプソン将軍、少年の従兄(いとこ)マッキャスリン・エドモンズ(少年の父の姉の孫で、彼より十六歳上であり、彼もマッキャスリンも一人っ子であって、彼が生まれたとき彼の父は七十歳に近かったので、彼にとって従兄というより兄であり、従兄や兄というよりも父親であった)は、馬上から二人を見おろしていた。もう二世代にわたって黒人であったが、その顔と態度はなおチカソー・インディアンの酋長であった父親そのままである七十歳の老人と、顔に血だらけの両手の跡をつけ、ただ今は真直ぐ立つばかりでふるえを見せようとしない十二歳の白人少年の二人を見おろしていた。
「この子はちゃんとやったかな、サム」と従兄のマッキャスリンはいった。
「りっぱにやりましただ」とサム・ファーザーズはいった。
 その二人は、永遠の印(しるし)をつけた白人少年と、両親とも未開人の王の血をひき彼に印をつけた老黒人であった。この黒人の血したたる両手は、少年がこの黒人の後見(こうけん)のもとに、つつましやかに歓喜あふれて、自己犠牲と誇りさえもって、すでに受けいれていたものに、その少年を捧(ささ)げる儀式を行なったにすぎなかった。その両手、その感触、ついに彼が鹿から流すに価するということになったそのふさわしい最初の血が、少年とその男を永遠に結んだ。その男は、少年が七十歳になっても、いや八十歳になっても、なお少年よりも生き続けるだろう、酋長や王たちのように、みずからは大地のなかへはいったずうっと後までも。――その子(まだ一人前の男ではないが、みずから成人して、ほとんど同じようにして同じ国で生きてきたお祖父(じい)さんにかわって、その土地で子孫を残すだろう)、と老人(七十をすぎており、その祖父たちが白人の見るずうっと以前にその土地を所有し、同じ仲間たちすべてとともに今は消え去ってしまい、あとに残した血はすべて今ほかの人種に流れ、しばらくは隷属の状態にさえあり、今は異なった、とりかえしのつかぬ道筋をたどって終わりに近づき、サム・ファーザーズに子がないゆえに不毛の血となってしまった)。その少年と老人が結ばれた。

……「古老たち」巻頭より

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