「フランダースの犬」

ウィーダ/矢崎源九郎訳

ドットブック版 320KB/テキストファイル 45KB

300円

みなし子となったネッロ少年には、忠実な老犬パトラッシェと一緒に、アントワープの町の人たちに牛乳を届けに行くのが唯一の暮らしの道だった。絵を描くことが好きだったネッロの夢は、町の教会堂にあるルーベンスの絵を見ることだった。ある日、放火の疑いを受け村を追われたネッロは凍てつくクリスマスの朝、教会堂までたどり着く。ルーベンスの絵は目の前にあった。だが……

ウィーダ(1839〜1908)イギリス生まれの作家だが、30歳くらいから以降はフィレンツェに暮らした。ウィーダは筆名で、本名はマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー。これは父親がフランス人だったため。生涯に40編以上の物語を書き、多くの愛読者があった。代表作『二つの旗の下に』『銀色のキリスト』など。犬好きだったことでも知られる。

立ち読みフロア

 ネッロとパトラッシェは、たよる者もなく、たったふたりきりで、この世にとり残されてしまった。
 ふたりは友達で、兄弟(きょうだい)よりももっと親しい友情にむすばれていた。ネッロはアルデンヌ〔フランス北東部からベルギー南東部にかけての高地山林地帯〕生まれの小さな少年で、パトラッシェのほうはフランダース〔フランドルともいい、ベルギーの西部一帯および、オランダの南端、北フランスの一部を含む地帯。東フランダースと西フランダースに分かれている〕生まれの大きな犬だった。年月(としつき)を重ねた数からいえば、どちらも同じ年であったが、ネッロのほうはまだ幼(おさな)い子どもであるのに、パトラッシェのほうはすでに年老(としお)いていた。
 ふたりは、これまでの生涯(しょうがい)をほとんど一緒に暮らしてきた。どちらも、みなし子で貧(まず)しく、同じ人の手で養われてきたのだった。
 最初は同情で結ばれたのが、ふたりを結びつける、そもそもの始まりとなった。しかもその結びつきは、日ましに強くなるばかりで、ふたりが成長するにつれて、ますますかたく、離れがたいものとなり、ついには、たがいに深く愛し合うようにまでなったのだった。
 ふたりの家は小さな小屋(こや)で、アントワープ〔ベルギー北西部の港町で、ベルギー第二の都会〕から三マイルほど離れたフランダースの、とある小さな村のはずれにあった。見渡すかぎりひろびろとした牧場と麦畑にとりかこまれていて、その平原(へいげん)を流れる大きな運河の岸べには、ながながとつづくポプラやアカハンノキの木立(こだち)が、そよ風にゆれていた。
 村には、ふつうの家やら農家やらを合わせて、二十軒ばかりの家があった。どの家も、目のさめるような緑色か空色のよろい戸をもち、屋根は赤いバラ色か、さもなければ黒と白のまだらになっていて、白く塗(ぬ)られた壁は日の光りを受けて雪のように輝いていた。
 村のまん中のあたり、コケのはえた小高い丘に風車が一つ立っていて、これがこのあたり一帯の平野の目じるしとなっていた。この風車は、昔は帆(ほ)から何から、すべてまっ赤に塗られていた。もっとも、それはこの風車のできたての頃の話で、半世紀かあるいはそれ以上も昔のことであり、その頃はナポレオンの兵士たちのために小麦をひいていたものだった。それがいまでは、雨風にうたれて、赤茶けてしまっていた。
 この風車は、年をとってリューマチにかかり、骨のふしぶしがこわばってでもいるみたいに、ときどき思い出したように変なかっこうで回っていたが、それでもこの近所一帯の人々の役には立っていた。村の人たちは、どこかよそへ穀物をひいてもらいに持ってゆくのは、ちょうどここの小さな教会堂の祭壇でとり行われるミサに出ないで、よその礼拝に出席するのと同じくらい、不信心(ふしんじん)なことと思っていたのだった。その小さな教会堂というのは、円錐形(えんすいけい)の尖塔(せんとう)のある、古ぼけた灰色の教会堂で、風車の向かい側に立っており、そこにあるたった一つの鐘(かね)は、オランダ、ベルギー地方のどの鐘にもよく見られる、あの妙(みょう)に沈んだ、うつろな、悲しげな音色を朝に、昼に、晩に、ひびかせていたのだった。
 この小さな、もの悲しげな鐘の音(ね)の聞こえるところ、村はずれの小さな小屋の中で、ネッロとパトラッシェのふたりは、ほとんど生まれ落ちてこのかた、ずっといっしょに暮らしてきたのだった。ふたりの目の前には、牧草と麦畑の緑の大平原が、潮の差し引きもなく、なんの変化も見せない海原(うなばら)のように限りなくひろがってゆき、その向こう東北のかなたには、アントワープの大教会堂の尖塔がそびえていた。
 その小屋というのは、ひどく年をとって、ひどく貧しいイェハン・ダースじいさんのものだった。この老人は、若い頃は兵隊だったので、まるで牡牛(おうし)が田んぼのあぜを踏みつぶすようにこの国を踏みにじった、いくどかの戦争のことをよくおぼえていた。軍隊勤めを終えて、老人が家に持ち帰ったものといえば、からだに受けた傷だけで、そのために老人はびっこになってしまったのだった。
 イェハン・ダースじいさんが満八十になったとき、娘がアルデンヌのスタヴロ近くで亡くなり、形見として二つになる息子を残していった。老人はじぶんの暮らしさえ、ろくろくたたないありさまではあったが、この余計な重荷を不平一つ言わずに引き受けた。ところが、まもなくその子は、老人にとってありがたい、大切な存在となった。小さなネッロ――ネッロというのは、ニコラスをちぢめた愛称――は、老人のもとですくすくと育ち、おじいさんと小さな子どもとは、貧しい、ちっぽけな小屋の中で、満足した日々を送っていた。
 小屋は、どろで造った、じつにみすぼらしい小さなものであったが、それでも清潔で白いことにかけては、まるで貝がらのようだった。そして、ちょっとした野菜畑の中に建っていて、その畑からは豆だの、薬草だの、カボチャだのがとれた。
 老人と子どもは、たいそう貧乏だった。恐ろしいほどに貧乏で、いく日もいく日も食べものがまるでないこともあった。まちがっても、食べものが十分あったためしはなかった。だから、腹いっぱい食べられでもしたら、それこそ天国にたどりついたも同じことであったろう。
 しかし老人は、その子にたいして大変やさしく、親切だった。男の子のほうも、美しく、無邪気で、まごころにあふれた、やさしい気だての少年だった。ふたりは、一かけらのパンと二、三枚のキャベツの葉があれば、それで幸福だった。そしてそれ以上は、地上の幸福も、天上の幸福も求めはしなかった。たった一つの願いといえば、パトラッシェがいつまでも自分たちのそばにいてくれるようにということだけだった。なにしろ、パトラッシェがいなかったら、ふたりはどうやって暮らしていったらいいのか、わからなかったのだから。
 というのは、パトラッシェこそ、老人と子どもにとってのすべてであったからだ。つまり、パトラッシェは、ふたりの金蔵(かねぐら)であり、穀物倉であり、また黄金の貯蔵所であり、富を生みだす魔法のつえであった。そしてまた、パンの稼(かせ)ぎ手でもあれば、召使いでもあり、さらにはふたりにとってのただひとりの友でもあれば、慰(なぐさ)め手でもあったのだ。もしもパトラッシェが死ぬか、どこかへ行ってしまうかしたら、ふたりとも同じように倒れて死んでしまったことだろう。
 パトラッシェは、ふたりにとっては胴体であり、脳髄(のうずい)であり、手であり、頭であり、足であった。いや、ふたりの命でさえあり、魂でさえあった。というのも、イェハン・ダースは年よりでびっこだったし、それにネッロはまだほんの小さな子どもにすぎなかったのだから。そしてパトラッシェは、このふたりの大事な犬だったのである。
 フランダースの犬は、毛並(けなみ)が黄色で、頭と手足が大きく、耳はオオカミのようにまっすぐ立っている。その種族は、何代にもあたるはげしい労働にきたえられてきたため、筋肉は発達し、足はぐっと曲がって、先のほうは踏まえたようなかっこうにひろがっている。
 パトラッシェの一族は、なん世紀もの間、フランダースで親から子へと苦しい、残酷な労役(ろうえき)をさせられてきた――奴隷の中の奴隷であり、人間にこき使われる犬であった。車のかじ棒と引具(ひきぐ)をつけられた獣(けもの)であり、一生の間、荷車のすり傷にうめきながらも、なお筋肉をはげしく使い、あげくのはてには、街路のかたい敷石の上で心臓がやぶれて、死んでゆく生きものであった。
 パトラッシェの両親は、あちこちの都会の、ごつごつした石の舗道(ほどう)や、東フランダースやら西フランダース、さてはブラバント〔ベルギー中部の州〕などの、ながながと続く木陰(こかげ)一つない、あきあきする街道で、一生の間、はげしい労働に服したのだった。パトラッシェが生まれながらに受けついだものは、ただそういう苦しみと労役だけであった。
 パトラッシェはののしり声で育てられ、げんこつの洗礼をうけたものだった。だが、それも当然のことではないか? なにしろそこは、博愛をたてまえとするキリスト教国のことであり、いっぽうのパトラッシェはといえば、一匹の犬にすぎないのだから。

……冒頭より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***