「銀塊の海」

ハモンド・イネス/皆藤幸蔵訳

ドットブック版 300KB/テキストファイル 197KB

600円

第二次大戦の末期、貨物船トリッカラ号は密かに大量の銀塊を積んで、ソ連からイギリスに向かっていた。船長ハルジーは暴風雨に乗じて銀塊の略奪を計画、仲間数人を残して乗員を漂流死させ、船は沈没したと発表した。同船の生存者バーディー伍長と砲手バートは軍事法廷で反抗の罪に問われる。二人はトリッカラ号沈没の謎と船長の犯罪を糾弾するべく、脱獄する。嵐の北海を舞台に、無実の罪を晴らそうとする男と、船に隠匿した銀塊の奪還を企てる男たちの死闘の物語。

ハモンド・イネス(1913〜98)  アリステア・マクリーンやデズモンド・バグリーらに大きな影響を与えたイギリスの冒険小説の先駆者、第一人者。ジョンブル魂を発揮するイギリス人の勇敢な姿を一貫して描き続けた。綿密な現地踏査をふまえた舞台設定は、どの作品においても圧倒的な臨場感をあたえるのに成功し、広範な読者を魅了した。他の代表作に「孤独なスキーヤー」「蒼い氷壁」「キャンベル渓谷の激闘」「メリー・ディア号の遭難」など。

立ち読みフロア

一 ムルマンスクから出航

 トリッカラ号の物語は、まことに奇妙である。同船はギリシャの船で、一九四一年イギリスに接収され、ケルト汽船会社が戦時輸送省のために動かしていたが、一九四五年三月五日の午前二時三十六分、船は公式にその生涯をとじた。ある経済新聞が、簡単にその最期を記録している。

『五千トンの貨物船トリッカラ号は、一九四五年三月五日、機雷(きらい)に触れて沈没し、二十三人が死亡した。同船は護送船団に加わっていたもので、沈没時の位置は、ノルウェーのトロムセの北西約三百マイルであった』

 ところが、それから一年以上もたった一九四六年五月十六日に、オーバン〔スコットランドの大西洋岸の港〕近くのロック・ユーにある海軍の無電局が、トリッカラ号と称している船から発せられたS・O・Sを受信した。それからまもなく、同船からの報告で、まぎれもなく沈没したはずのトリッカラ号であることがわかった。その積荷の重要性にかんがみ、トリッカラ号を曳航(えいこう)するため、海軍の引き船が急派されたが、事情が判明するまでの二日間というもの、トリッカラ号の劇的な再現というミステリーをめぐって、イギリス中がわきたった。
 わたしは、いっしょにいたバート・クックを除けばおそらく、生きている人間のだれよりも、トリッカラ号について知っていると思う。わたしは、一九四五年三月に、同船が沈没したときの生存者の一人だった。そして、一九四六年五月に、トリッカラ号からS・O・Sを送ったのはわたしだった。だから、同船がムルマンスクを出航する前夜から始めて、自分が目撃したすべてのことを、ここに述べることにする。

 それは、一九四五年三月二日のことであった。わたしとバートは、イギリスへの帰還を待っていた。ムルマンスクは身を切られるように寒かった。風は、わたしたちが宿泊していた大きな木造の倉庫を、ヒューヒュー吹き抜けていた。こわれた窓ガラスに張りつけてあったボール紙は吹き飛ばされ、ひさしの下や、床板の間のすき間からも、風が吹きこんできた。そのうえ、風は粉雪(こなゆき)を運んできて、床の上は砂漠の砂のような粉雪でおおわれた。簡易宿泊所のような巨大な倉庫には、毛布にくるまっている赤軍の兵隊がいっぱいいた。毛布は粉雪をかぶって白くなっていた。
 イギリスへの帰還を待っている人間は八人いたが、わたしたちは、もと事務所に使われていた一室を与えられた。そこには、カレンダーと火鉢があった。それが家具の全部だった。その夜わたしたちは、暖をとるため、火鉢のまわりにうずくまっていた。カレンダーの日付から二十二日分が消されていた。わたしたちはその間、船を待っていたのである。イギリスでは、もうリンボクが芽ぶき始めて、大気に春の匂いがするだろうな、と考えたことをわたしは覚えている。ところがムルマンスクでは、木々は真っ黒でまだきびしい冬のさなかであった。いたるところに氷があり、深い雪のために、すべての音が消され、鉄の車輪のついた赤軍の大型輸送車が町を通っても、音がしないくらいだった。わたしはムルマンスクのことを考えるたびに、きびしい寒さ、火鉢の火に照らされた赤い顔、汽車の通るガタガタという音や汽笛の音、ロシア兵の歌声まで消してしまう絶えまない風の音を思い出すにちがいない。
 特別強い一陣の突風が窓に吹きつけ、ガラスがわりに張ってあったボール紙の一枚がはがれて、氷のような風が部屋じゅうに吹きこんだ。「いまいましい風だ、畜生!」と、バート・クックがつぶやいた。「こんなみじめな思いをしているのに、それでも足りなくて、大吹雪にしようってんだな。あしたはおれの誕生日だ。いい誕生日にはなりそうもねえや」
 彼は、ガランとした部屋の中を見まわし、それから火鉢にいっそう体を近づけた。彼は小さなサルのような顔をしていた。その顔はしわだらけで、なめし皮のような皮膚は、真っ赤な炭火の光で赤く輝いていた。イギリスを発つ直前に、歯を全部抜いてしまったので、口のまわりがしわくちゃ婆(ばばあ)のように落ちくぼんでいた。
「たぶん、ロシアにはガラスがねえんだろう、かわいそうに。こんな天候にゃ、ボール紙は役にたたねえ」彼は立ちあがって、吹き飛ばされたボール紙を窓にはめ、銃を立てかけて押さえにしてから、また火鉢に戻った。「ここにいると、セント・パンクラス通りのフリー・フェバースを思い出すな。いつもすき間風の吹き抜けるパブだった」彼はほかの者たちに、にやっと笑いかけて、ほこりだらけの手をひろげて火鉢にかざした。


……冒頭より


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