モーム短編集

「園遊会まで」

モーム/田中西二郎訳

ドットブック版 140KB/テキストファイル 91KB

300円

短編集「手紙」とともに、「カジュアライナ樹」と題された短編集に収められた、モームのいわゆる「東南アジアの植民地もの」に属する作品。「奥地駐屯所」「臆病者」「園遊会まで」の3編を収録する。どれもマレー半島やボルネオの旧英領植民地に住む英国人たちをとりあげ、その生態をモームならではの視点から浮き彫りにしている。

サマセット・モーム(1874〜1965) 20世紀の英文学を代表する作家。パリに生まれ医学をおさめたが、のち作家を志した。「ランベスのライザ」でデビューし、小説だけでなく、戯曲、エッセイなど多彩な分野で活躍した。代表長編「人間の絆」「月と六ペンス」「お菓子とビール」のほか、多くの短編を著し、短編の名手といわれた。

立ち読みフロア
 新しい副司政官は午後に着いた。司政官のウォーバートン氏は、プラーウが見えたと知らせを受けたので、日除けのヘルメットをかぶって船着場へ降りて行った。八人の小柄なダイヤク族の守備兵が、彼の通るとき気をつけの姿勢をした。彼等の動作が活発で、軍服もきちんと清潔で、銃もピカピカ光っているのを見て、彼は満足した。これは彼の自慢の種だった。
 船着場から、彼はボートがもうすぐ姿をあらわすはずの河の曲り鼻を眺めやった。汚点《しみ》一つないズックのズボンに白靴という彼の姿はなかなかスマートだった。腕の下には、ペラク族のサルタンから贈られた、金の握りのあるマラッカの杖《ケイン》を持っていた。
 新来の下役を待つ彼の気持は複雑だった。この地区には一人の役人では処理しきれないほど仕事があるし、定期的に管轄の地域を巡視する際にも、駐屯所を原住民の書記の手にゆだねて置くのは工合がわるかった。けれども彼はこれまでずっと長いあいだ、たった一人の白人として暮らして来たので、もう一人の白人が来るのを、不安なしに迎える気持にはなれなかった。
 孤独には慣れている。戦争中は、三年間、ただ一人のイギリス人の顔も見なかった。そして一度、一人の営林官を宿泊させるようにとの通牒を受けとったとき、彼はすっかり狼狽して、見知らぬ客の到着の日が来ると、何から何まで接待の用意をととのえ、自分は上流の地方へ行かなければならぬからという置き手紙を残し、逃げてしまったことがある。そしてお客がいなくなったという知らせを、使いの者から受けるまで、帰って来なかった。
 いま、プラーウは広い河筋にすがたを現わした。漕いでいるのはいろいろの刑で服役中のダイヤク族の囚人で、こちらの船着場には二人の看守が、彼等を刑務所へ連れ帰るために待っている。囚人はみな頑丈な男ばかりで、河には慣れているから、ぐいぐいと力いっぱい漕いでいる。ボートが横づけになると、一人の男が棕櫚《しゅろ》の日覆《おおい》の下から起きあがり、岸に降り立った。守備兵たちが捧げ銃をした。
「さあ、やっと着いた。やれやれ、ひでえ窮屈な目にあいましたぜ。あんたに手紙を預って来ました」
 男はひどく浮々した陽気な調子である。ウォーバートン氏は慇懃《いんぎん》に手をさしだした。
「クーパー君、ですね?」
「その通りでさあ。誰かほかの人間が来ると思ったんですか?」
 この質問はおどけたつもりだったが、司政官はにこりともしなかった。
「わたしがウォーバートンです。きみの宿所へ御案内しましょう。荷物はあとから運ばせます」
 彼はクーパーの先に立って、狭い通路を通り、小さなバンガローの立っている一つの屋敷へ入った。
「できるだけ住み心地のいいように用意はさせましたが、何分もう何年も人が住まなかった家ですから」
 建物は杭を打った上に建ててある。細長い居間、その前面に広いヴェランダがあり、奥には廊下を挾んで二つの寝室がある。
「これならわしには結構です」とクーパーは言った。
「まあ入浴をして、着替えをされたらいいでしょう。今晩はわたしのところで食事をして頂けると嬉しいが、八時ではどうですか?」
「やあもう何時だろうが結構です」
 司政官は鄭重《ていちょう》な、しかし少しばかりまごついたような微笑をして、そこを出た。彼は自分の住居のある「砦《フォート》」へ帰った。アレン・クーパーが彼に与えた印象は、あまりよくなかった、けれども彼は公正な人物で、わずか一面識だけで意見をきめるのが不当なことはよく知っていた。クーパーは三十歳前後らしい。背丈《せい》の高い、痩せた男で、土気色した顔には、まったく血の気が見えない。それは単調な一色だけの顔だ。大きな鉤鼻《かぎばな》に、蒼い眼。バンガローへ入りしなに、彼はヘルメットを脱いで、それを給仕に投げつけたが、ウォーバートン氏は短い褐色の髪に覆われた大きな頭が、貧弱な小さい顎と奇妙な対照を形づくっていることを認めた。彼はカアキの短ズボンにカアキのシャツを着ていたが、それらはみすぼらしく薄汚れていた。型のくずれたトオピも、幾日も手入れをしていなかった。ウォーバートン氏は青年が沿岸航路の汽船で一週間も暮らし、その上この二昼夜というもの、プラーウの底に寝て過したのだということを考え直した。
「晩飯の席へ、どんな恰好をして来るか、それでわかるだろう」
 彼は、まるでイギリス人の侍童でも雇っているかのようにきちんと整頓された自分の部屋へ入って、服を脱ぎ、浴室へ通じる階段を降りて、冷たい水を浴びた。白の夜会服《ディナー・ジャケット》を着ることだけが、彼のこの土地の風土に対する妥協で、ほかの点は、胸の堅いワイシャツに高いカラ、絹靴下に黒のエナメル靴、まるでペル・メルのクラブででも食事をするような儀式ばった礼装だった。慎重な主人役らしく、彼は食卓の支度に手落ちがないかを見るために食堂へ入って行った。蘭の花が華やかな彩りを添え、銀器はかがやいている。ナプキンも見事な形にたたんである。銀の燭台にシェードをつけた蝋燭《ろうそく》が、やわらかな光を投げている。ウォーバートン氏は満足の笑みを洩らして、客を待つべく居間へ引返した。やがて客が来た。クーパーはカアキ色の短ズボン、カアキ色のシャツ、それに上陸したときと同じボロボロの上衣を着ていた。ウォーバートン氏の挨拶の微笑は、そのまま凍りついてしまった。
「おーや、おや、あんたは正装ですね」とクーパーが言った。「そんなこととは知らなかったです。わしはまた、すんでのことに、サロン一枚で来るところでした」
「なに、ちっとも構いません。きっとボーイが忙しかったんでしょう」
「わたしのために何もわざわざ着替えをして頂くことはなかったんですよ」
「わざわざじゃありません。わたしはいつも晩餐には着替えをします」
「お一人でもですか?」
「一人のときはなおさらです」冷やかに相手をみつめながら、ウォーバートン氏は答えた。
 彼はクーパーの眼のうちにチラリと好奇心のまたたきを見て、怒りにさっと顔をあからめた。ウォーバートン氏は怒りっぽい人物だった。その好戦的な顔だちの赭《あか》ら顔、白髪になりかかっている赤い頭髪をみても、それはすぐに察しがつく。彼の蒼い眼は、ふだんは冷たくて観察的だが、突然の憤怒ですぐに燃えあがる。しかし、彼は世間人でもあり、同時に公正な世間人でありたいと思っていた。彼は何とかしてこの男と仲好くやってゆくようにベストをつくさねばならなかった。

……「奥地駐屯所」冒頭より

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