「ジブラルタルの水夫」

マルグリット・デュラス/三輪秀彦訳

ドットブック 229KB/テキストファイル 193KB

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第二次大戦後、アンチロマンの旗手とみなされて登場したフランスの女流作家デュラスの中期の代表作。「ジブラルタルの水夫」をどこまでも追いかけることが唯一の生きる目的となった不思議な女と、それに惹かれて付いていく一人の男…はたして「ジブラルタルの水夫」は見つかるのか? 人生の白熱的瞬間に魅せられ、それに固執する人を描くロマン。

マルグリット・デュラス(1914-96)現在のベトナム南部の生まれ。ソルボンヌ大学で法学士と経済学士号を得たあと出版社に勤務。1944年、三十歳のとき「静かな生活」を発表、しばらく間をおいたあと「太平洋の防波堤」「ジブラルタルの水夫」を発表して旺盛な作家生活にはいり、「モデラート・カンタービレ」「夏の夜の十時半」などの代表作を生み出した。シナリオ作家としても有名で「ヒロシマ、私の恋人」は世界的な成功を収めた。

立ち読みフロア

 ぼくたちはすでにミラノとジェノアを訪れていた。ピサへ着いて二日たったとき、ぼくはフィレンツェへ出発しようと決心した。ジャクリーヌも賛成した。もっとも彼女はいつだって賛成するのだ。
 戦後の二年目だった。汽車の席はなかった。あらゆる方向のあらゆる時刻の列車が満員だった。旅行はスポーツ同然となっており、ぼくたちはだんだんうまく旅行できるようになった。しかし今度は、ピサの駅へ着いたとき、窓口は閉され、もはやどこへ向う列車の切符も売っていなかったのだ。電車のことを考えてみたが、その切符さえ発売していなかった。こうした妨害にもかかわらず、ぼくはその日のうちにフィレンツェへ着こうと心に誓った。旅行するときには、ぼくはいつもこんな具合にむきになった。いつだって無理に旅行しなくてはならなかったからだ。そしてその日には、フィレンツェの見物を翌日まで待つと考えるだけで、ぼくには耐えがたいことだった。その都会に何を期待していたのか、どんな啓示や心の安らぎを望んでいたのか、たぶんぼくにはその理由をうまく説明できなかったろう。たしかに、ぼくにはほかに焦燥の原因がなかったから、こんなに急ぐ理由を明らかにしようともしなかった。電車がだめだとなっても、ぼくはなおも探しまわった。すると、毎土曜日の六時頃にフィレンツェへ帰る労働者の団体があり、彼らのトラックは駅前広場に駐車して、時にはお客も乗せてくれると教えてくれた人がいた。
 そこでぼくたちは駅前広場へ行った。五時だったので、一時間ほど待たねばならなかった。ぼくは自分のスーツケースに、ジャクリーヌは彼女のに腰を下ろした。広場は爆撃を受けており、壊れた駅の建物ごしに、列車の発着が眺められた。疲れきった汗くさい何百人もの旅客たちがぼくたちの前を通り過ぎた。ぼくは彼らがみんなフィレンツェから来たのか、それともそこへ行く人たちだと想像し、うらやましげに見つめた。すでに暑くなっていた。広場に残された数本の並木も、太陽や汽車の煙で葉を焼かれ、ほんのわずかの影しか投げかけていなかった。ぼくはトラックのことしか考えなかったので、暑かろうと平気だった。三十分ほどすると、ジャクリーヌが喉が乾いたのでレモネードでも飲みたい、まだ時間はたっぷりあるからと話しかけた。ぼくは彼女にひとりで行くように言った、労働者たちに会いそびれたくなかったからだ。彼女はあきらめて、アイスクリームを買った。ぼくたちはそれを急いで食べた。指のなかで溶けてしまいそうだった。それは甘すぎて、よけいに喉の乾きを増した。八月十一日だった。イタリア人たちは、もうじき土用になること、ふつうそれは八月十五日頃だと警告していた。ジャクリーヌがそのことを思い出させた。
「まだこれからなのよ」と彼女はいった。「フィレンツェで何を食べるつもりなの」
 ぼくは答えなかった。三度のうち二度まで彼女に返事しなかった。夏のためぼくはまいっていた。たぶんぼくは、彼女の口に合う食物を見つけることに絶望していたからだろう。彼女がそんな口調で話すことがぼくにはやりきれなかった。

……《第一部》冒頭より


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