「ガラスの鍵」

ダシール・ハメット/砧一郎訳

ドットブック版 164KB/テキストファイル 166KB

500円

市政を腐敗させるボス同士の争いの渦中におこった奇怪な殺人事件。害者は上院議員の息子であった。謎を解こうと奮闘する賭博者ネド・ボウモン……非情な世界を活写するハードボイルドの名作。作者が自作のうちでいちばん愛好するとのべた作品でもある。

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「赤い収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。

立ち読みフロア

 みどり色の台の上を、みどり色のさいころがコロコロところがり、台の縁《へり》にぶつかってはねかえった。さいころのひとつは、すぐとまって、白い点が同じ数ずつ二列に並ぶ六の目を出した。もうひとつは、台のまんなかまでころげて来て一の目を上にしてとまった。
 ネド・ボウモンは、低くうなった――「ううん!」――勝ったほうが、台の上の現金をすっかりさらいとった。
 ハリー・スロッスが、さいころをつまみ上げて、青白い毛むくじゃらの大きな手の中で、カラカラといわせた。「さあ、二十五ドルと行くぜ」台の上に、二十ドル紙幣と五ドル紙幣を落とした。
 ネド・ボウモンは、台からうしろに退《さが》った。「さあ諸君、やりたまえ。おれは、軍資金を補給して来るよ」ビリヤード室のドアまで行くとウォルター・イヴァンズの入って来るのに出会った。「よう、ウォルト」と、声だけかけて、そのままやり過ごそうとしたが、すれちがいざまに肘《ひじ》をつかまれ、前に立ちふさがれた。
「あんた、ポ、ポ、ポウルに、は、は、はなしてくれたか?」イヴァンズが、「ポ、ポ、ポウル」とどもると、くちびるの間から、細かなつばが飛び散った。
「これから会いに行くところだ」イヴァンズの青磁色の眼が、美しいまる顔に輝きわたった。ネド・ボウモンは、眼を細めていい足した。「あまり当てにするなよ。まあ、しばらくがまんするんだな」
 イヴァンズのあごの先が、ピリピリッとひきつれた。「しかし、ら、ら、らいげつ、あれに、あ、あ、あかんぼが生まれるんだ」
 ネド・ボウモンの黒い眼に、ビックリしたような表情があらわれた。背の低い相手の手から、自分のうでをもぎ離して、ひと足うしろに退《さが》った。黒い口ひげの下のくちびるの隅が、ピクピクとけいれんした。「そいつは、まずいときにぶつかったもんだ――そうだな、十一月までは、あまり当てにすると、ガッカリさせられるぜ」
「だけど、あんたが、は、は、はなしてくれたら――」
「そりゃあ、おれも、できるだけ一生懸命に頼んでみるよ。大将ができるだけのことをやってくれるのは、君も知っている通りだが、今は、大将もむずかしいところだからなあ」ネド・ボウモンは、肩をうごかして見せた。眼は、油断なく光っているが、顔には陰がさして来た。
 イヴァンズは、くちびるを湿《しめ》らして、眼をしばたたいた。息を深く吸いこんで、両手でネド・ボウモンの胸をたたいた。「さあ、い、い、いってくれ」訴えるような、うながすようないいかただった。「こ、こ、ここで、ま、ま、まっているぜ」

……「第一章 チャイナ街の死体」より

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