「黄金のロバ」

アプレイウス/呉茂一・国原吉之助訳

ドットブック版 335KB/テキストファイル 274KB

700円

ラテン文学を代表する古典。原題は「変身譚(メタモルフォーセス)」で、魔法によってロバにされてしまった若者ルキウスの遍歴を描く。魔女に寝首をかかれる恋人、鼻をまちがえてそぎとられる死体の番人、夫の目をぬすんで情夫と戯れる女……ロバのルキウスはつぎつぎと競売にかけられて飼い主の変わるなか、あちこちと連れまわされ、何度も命を脅かされながら当時の世態を目の当たりにする。バラの花を食べて、ぶじに人間の姿にもどれるのは、はたしていつの日か? ルネサンス時代に再発見されて以来、愛読されてきた、風刺のきいたファンタジー。「黄金の」とは、「面白く楽しい」という意味で、いつのまにか、こういうタイトルがつけられた。

アプレイウス(125?〜?)ローマ帝政時代の詩人、修辞家。アフリカのマダウロス生まれ。カルタゴ、アテナイで教育を受け、小アジア、エジプト、ローマなど各地を訪れ、のちカルタゴに落ち着いて市政にも参画するなど、幅広く活躍した。代表作「黄金のロバ」。

立ち読みフロア

 さてこれから、私がご存じのミレトス風な物語〔ミレトスは小アジアの商都、いろんな奇譚集がここで作られたといわれる〕に種々さまざまなお噺(はなし)を織りあわせ、ご屓負(ひいき)にして下さる皆さんのお耳をたのしいさざめきでうっとりさせよう、というわけなのですが、まずそれにはこのナイル河の葦筆(カラモス)で事細かに記しあげたエジプトの書巻をご覧(ろう)じ下さりませ。いろんな人物の姿や身の上が、ほかの形に変えられてから、また今度は順ぐりに元の相貌に還りつくという、不思議な話をまあ聴いて下さい。
 では始めるとして、この男、作者は一体どういう人間か、手短かに申し上げれば、あのアッティカ〔アテナイ周辺の州〕のヒュメットス山、コリントスのイストモス、スパルタのタイナロス岬、こういった名誉の土地、それ以上にも名誉な書物で永遠に伝えられてる、その国〔ギリシア〕が私の古い故郷なんでして。そこでまず子供時分の最初の課業にアッティカの言葉を覚え込み、それから間もなくローマの都へと学問をしに罷(まか)り出ていろいろと苦労し、手引きをしてくれる師匠もなしに、地つきのラテンことばを勉強にかかったという次第なのです。
 さればこそいま、私としたことが異国のしかも公け場所の言葉づかいに、もしはしたない物言いでもして失礼申し上げました折には、平にご容赦おき下さるようあらかじめお願いいたしておきます。
 いやもう実際、この言語をギリシアとラテンと取り換えましたは、ほんに曲馬で走っている馬から馬へと飛びうつる術と同じこと、これから取りかかろうという話の振りにも対応してるわけなのでして。つまりこれから始まるのはギリシア仕立ての物語。さあ皆さん、聴いて下さい。面白いことは請け合いましょう。〔一〕
 テッサリアへ、というのは私どもの母方の先祖がもともとそこに住まって、あの有名なプルタルコス〔『対比列伝』の作者で、西暦一世紀の人〕やその甥に当る哲学者セクストゥスを出したため、世にも知られ我々の自慢の種にもなってますので――そのテッサリアへ私が所用で出かけた折のことでした。険しい山路や滑りやすい谷、露をおく草原や一面に耕された田畑などをわたってゆくうち、乗ってたまっ白な地生れの馬もずいぶん疲れてきましたので、私自身も鞍に坐りきりの疲労をこのさいすこし活溌に歩いて医(いや)そうと考え、馬から飛び降りると額の汗をていねいに拭き取ってやり、耳を撫でたり手綱を弛めたりしてから、だんだんと緩歩(ゆるあし)にすすめてまいりました。いつものように自然の力で疲れの苦しさがおのずと消えてゆくまでと考えまして。
 さて馬が道々の草原を、散歩ながらの朝飯というわけで、口を横にひんまげながら、うつむいてしきりに食ってゆくうち、二人の道づれが、たぶんちょっと先を歩いてたものらしく、私と一緒になりました。そこで私は一体どんなことを話しあってるのかと耳を傾けますと、一方の男が高らかに笑いたてて、
「おい勘弁してくれ、君、そんな風におそろしい馬鹿げた嘘をついて人を瞞(だま)すのは」というので。それを聞くと、そうでなくとも平生珍らしいことってえと夢中な私は、「どうか是非、私にもその話を聞かせて下さい」と申しました。「いえ、別に物ずきでというばかりじゃなく、できるだけ沢山の知識を、私はつねづね仕入れたいと考えてるものですから。またそうすれば、これから越すあの丘の険しさも、お話の面白さで、ずっと容易(たやす)く思われましょうし」〔二〕
 するとはじめの男がいいますには、「その嘘の本当らしさは、魔法のまじないで速い河が逆さまに流れる、海がじっと縛りつけられる、風がそよともせず死に絶える、いや、太陽のゆくてを遮(さえぎ)り月のしずくを搾(しぼ)り、星をねじまげ昼をくらくし、夜をいつまでも続かせることができる、なんていうのが本当なのと同じくらいだ」
 そこで私もいっそう勢いこんで、「ねえあなた、あなたがまず先に話をしだしたのですから、いまさら怠けたり倦(あ)きたりしないで、あとを続けて下さい」といって、もう一人のほうに向い、「だがあなたは聞く耳も持たず心も頑固で、あるいは本当だと確められるかもしれないことを受けつけようとなさらないんですね。他人の間違った意見に惑わされて、はじめて見聞きする不思議なことを、嘘だと考えなしに思ってるんでしょう。とりわけあなたの理解力に届きにくいようなことはね。でもそれをもう少し詳しく気をつけて調べてゆけば、はっきりと会得もできるばかりか、実際自分で楽にやれることすら解るんですよ。〔三〕
 まったくのこと、私だって、こないだの晩チーズでまぶした麦の塊りを、友達と会食の席でしたが、ほんのちょっと大きいのをおくれまいと嚥(の)み込んだところ、食物がねばっこく咽喉(のど)にくっついちまって、息の通うみちを塞いだものですから、すんでのところで死にかねませんでした。それがついこの間もアテナイで、しかもあの画廊(ストア)の前でもって、この両眼で見たばかりじゃありませんか、手品師が砥ぎすました騎士の刀を、鋒(きっさき)を下にむけて嚥みこんじまったのを。それからつづいて僅かばかり銭をやったら、猟につかう槍をですよ、いまにも命を取りそうな鋩(きっさき)から、腸のなか深くつき入れちまったんで。
 しかもですよ、その槍のはがねの先の、ちょうど刃物の柄がのどくびを抜けて頭のてっぺんに向うところに、しなやかな様子のいい小童(こども)が登って、いろいろと体をねじり曲げ、骨も筋もないみたいに踊りつづけたので、居あわせた我々の誰ひとり感心しない者はありませんでした。まるで医術の神アエスクラビウスの杖に――半分小枝を切りとって瘤だらけなのをお持ちですが――それへ見事な蛇がぬらぬら巻きついてるようといってもいいくらい。ですがさあ、どうかあなた、さっきお始めになったあの話をもう一度くり返して下さい。私はこの方に代わって、ひとりでもあなたの話を本当にしますよ、それで私らが最初に出逢う飯店(はたご)で一緒に昼飯にしましょう。それをまあお話の駄賃として定(き)めておくことにします」〔四〕
 するとその男はいいました、「いかにもそうあなたが約束して下さるのは、ご親切な嬉しいことです、じゃあ、やり始めた話の先をつづけましょう。だがその前にあなたに誓っておくが、あの万物をみそなわす太陽神にかけて、私の話は実際まったく確かなことで、もしあなた方がテッサリアでとっつきの町へ辿(たど)り着いたとしたら、それ以上疑いつづけはなさらんでしょう。その地方ではそんなことは隠れもない大っぴらな事柄で、しょっちゅう口の端にのせられている話なんだから。
 ところで初めに私の国はどこかお解りのようお話すれば、アイギオンの者なのでして、何の商売で生計(くらし)をたててるかというと、蜂蜜とか乾酪(チーズ)とか、そういった種類の品を、テッサリアやアイトリアやボイオティアなどあちこち往来して商いをしてるわけなのです。でこのヒュパテの町へ、というのはテッサリア中でもここがとりわけ賑やかなところなもので、そこで新鮮な、殊(こと)に味の好い乾酪(チーズ)がどっさり手頃な値段で買えるということを聞いたものですから、そいつをすっかり買い占めようと、急いで馳けつけて来た次第でした。それがですねえ、よくあるように、左の足から〔左は凶兆とされていた〕踏み出したもんで、金儲けのあてがすっかり外れちまったんで。すぐ前の日にルプスという大手の卸商人がみんな買い占めてしまったもんでしてね。
 そんなわけで私もくたびれてしまい、ちょうど夕方にもなったので、浴場へ出かけると、そこで、自分の朋輩のソクラテスという男が目にはいったのです。〔五〕
 地べたにそいつは坐りこんで、ぼろぼろな古外套で半分体をおおい、顔色も蒼(あお)くて殆んど別人かと思うばかり、ひどく痩せこんで顔かたちもすっかり変わり、まるでよく町の辻で憐れみを乞う運命の敗残者といった姿(なり)でした。そんな風だもので、もともと身内のごく親しい間柄ではあったものの、ためらいながら傍(そば)へ近づいていいました。
『おい、こりゃあソクラテス君じゃないか、一体どうしたというのだ。なんて様子をしてるんだ。どんな罪過を犯したのかね。まったく君の故郷(くに)じゃあもう死んだ者として、君は葬式(とむらい)も悼(くや)みもすまされてるんだぜ。それで君の子供たちには、地方判事の命令で後見人が指定されてるし、細君のほうは毎日嘆き悲しんでやつれ果て、ほとんど盲目になるくらい自分の眼を泣きつぶしてしまうところだったが。死人への最後のつとめも果して、ふしあわせな家の中を新しい婿(むこ)取りのよろこびで陽気だたせるようにと、両親から迫られているところなんだ。それなのに君はこんな幽霊みたいな姿(なり)をして、我々にひどく恥かしい思いをさせるのかね』
 すると彼は答えて『アリストメネス君、君は運命のあてにならぬ紆余曲折(うねりくねり)や危なっかしい突っ込み、次々の移り変わりなどというものを知っていないのだ』というと、いきなり綴りあわせたぼろぼろの衣で、もうさっきから恥かしさで染めていた顔を蔽いました。それでお臍(へそ)からずっと足の先までむき出しになってしまった。でも私はとうていこんなに悲惨なさまを見るに忍びなかったので、手をかけて彼を引き起こそうとしました。〔六〕
 しかし友だちは、相変らず顔をかくしたままで、『許してくれ、どうか、もう暫く運命に勝利を誇らしておかせるがいい』といいます。でもとうとう、後について来させる一方、すぐさま二枚着ていた衣の一つを脱いで大急ぎで着せた、というよりは被(かぶ)せたといいますか、それでいきなり浴場へ連れ込みました。

……「巻の一」巻頭より

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