「グラント船長の子供たち(上)」

ジュール・ヴェルヌ作/大久保和郎訳

ドットブック版 502KB /テキストファイル 174KB

400円

SFの始祖として知られ、冒険小説の第一人者として知られるジュール・ヴェルヌの「驚異の旅」シリーズ第五作。スコットランドの貴族グレナヴァンはふとしたきっかけから冒険家グラント船長の船が遭難して船長が消息を断ったことを知り、残された姉妹メァリとロバートを連れて船長の捜索にのりだす。だが、さしあたりの手がかりは南米のパタゴニアしかない。老練な航海士オースティン、料理長オルビネット、グレナヴァンの従兄弟で沈着なマクナブズ少佐、まちがって同船し冒険旅行に出ることになったが、該博な知識で協力する天衣無縫の地理学者ジャック・パガネル…果たしてグラント船長はどこかに生きているのか?
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 一八六四年七月二六日、北東の強い風に乗って一隻のすばらしいヨットが全速力でノース海峡の波の上を進んでいた。イギリスの国旗が後檣(こうしょう)の斜桁(しゃこう)にひるがえっていた。主檣(メインマスト)のてっぺんにかかげた三角旗には、金糸で刺繍したE・Gという頭文字の上に公爵家の冠が描いてあった。このヨットは〈ダンカン〉という名で、上院に席を持つ十六人のスコットランド貴族の一人であり、連合王国の全土にその名を知られている〈ロイヤル・テイムズ・ヨット・クラブ〉の最も身分の高い会員の一人であるロード・グレナヴァンの持ち船だった。
 ロード・エドワード・グレナヴァンは若い妻レイディ・ヘレナ、および従兄弟の一人であるマクナブズ少佐と一緒に船に乗っていた。
〈ダンカン〉は新造船で、クライド湾から数海里出たところで試運転をし、今グラスゴーに帰ろうとしていた。すでにアラン島が水平線に頭をもたげていたが、そのとき見張りの水夫がヨットの跡を追いかけて来る巨大な魚を認めた。船長ジョン・マングルズは、早速ロード・エドワードにこの発見を知らせた。彼はマクナブズ少佐と一緒に船尾楼の上に出て、この魚のことをどう思うかと船長にきいた。
「閣下、すばらしく大きな鮫(さめ)だと私は思います」とジョン・マングルズは答えた。
「このあたりに鮫が!」とグレナヴァンは叫んだ。
「疑う余地はありません。あの魚はあらゆる緯度のすべての海で見かける鮫の一種です。〈バランス・フィッシュ〉〔シュモクザメ〕という奴です。もしこれが私の見間違いでなければ、あいつはこの悪党の仲間です。閣下がお許しくださるなら、また奥様に珍しい漁を見物なさるお気持がすこしでもおありならば、奴の正体はじきにわかるでしょう」
「どう思う、マクナブズ」とグレナヴァンは少佐に言った。「一つ冒険をやってみようと思うかね?」
「君にはおもしろいだろうと思うよ」と少佐は物静かに答えた。
「それにまた、この恐ろしい獣はいくら殺しても殺しすぎるということはないのです」とジョン・マングルズはまた言った。「この機会にやってしまいましょう。もし閣下がおもしろいとお思いになれば、手に汗を握る見物にもなるし善事(ぜんじ)にもなりますから」
「やりたまえ、ジョン」とロード・グレナヴァンは言った。
 それから彼はレイディ・ヘレナに知らせにやり、彼女もこの手に汗を握らせる漁に本当に心をそそられて船室の上に出て来た。
 海はすばらしく凪(な)いでいた。驚くべき力で沈むかと思うと跳ね上る鮫の迅速な動きを水面上に容易にたどることができた。ジョン・マングルズは命令を下した。水夫たちは右舷の手摺(てすり)越しに、厚い脂肉(あぶらみ)を餌にして鉤(かぎ)をつけた丈夫な繩を投げた。鮫は四十五メートルも離れていたにもかかわらず、その猛烈な食欲の前に出された餌を嗅ぎつけた。するすると鮫はヨットに近づいた。先端が灰色で基部の黒いその鰭(ひれ)が激しく水を打ち、尾によって一直線に方向を保って来るのが見えた。進むにつれてその飛び出た大きな目が貪欲さにぎらぎらするのが見え、体を反転させるときその大きく開いた顎(あご)は四列にならんだ歯をのぞかせた。頭は幅広く、柄のはしについた両頭のハンマーのような形になっている。ジョン・マングルズが見誤るはずはなかった。これこそイギリス人がバランス・フィッシュといい、プロヴァンス人がポワソン=ジュイフ(ユダヤ人の魚)と呼ぶ、鮫族のなかでも最も貪欲な部類だったのだ。
〈ダンカン〉の乗客も船員も注意を凝らして鮫の動きを見守った。間もなく鮫は鉤のそばに来た。それからうまくかぶりつけるように反転して腹を上にし、大きな餌はその幅広い喉(のど)のなかに消えた。たちまち彼はワイヤーに激しい衝撃を与えて自分から〈ひっかかり〉、水夫たちはメインマストの下桁(かこう)のはしにとりつけた滑車を使って巨大な鮫を引っぱった。
 鮫は自分の本来の世界である水から引き上げられるとわかると猛烈にあばれまわった。しかしその猛烈さも押えられた。輪差(わさ)を作った繩が鮫の尾にまきつき、鮫の動きを封じた。しばらく後には鮫は舷側から引き上げられてヨットの甲板の上にほうりだされた。たちまち水夫の一人が用心しながら近づいて、力いっぱい斧をふるって鮫の物凄い尾を切り落した。
 漁は終わった。もはやこの怪物を恐れる必要はまったくなかった。船乗りたちの復讐心は満たされたが、好奇心のほうは満たされなかった。実際どんな船でも、捕えた鮫の腹のなかを入念に調べる習慣になっていた。水夫たちは鮫の見さかいなしの貪欲さを知っていたので、何か思いがけないものがあるのではないかと予期していたが、この予期は決して裏切られることがなかった。
 レイディ・グレナヴァンはこの胸の悪くなるような〈検査〉に立会いたいとは思わず、船尾楼のなかへ引っこんだ。鮫はまだ喘(あえ)いでいた。体長一メートル八〇、重さは二七〇キロもあったが、これくらいの大きさや重さは全然珍しいものではない。しかしバランス・フィッシュはこの種のもののなかで巨大な部類に属するものではなかったにしても、すくなくとも最も恐るべきものに数えられていたのである。
 間もなく大きな魚は容赦もなく斧で腹を割(さ)かれた。鉤(かぎ)は胃のなかにまではいっていた。胃はまったくからっぽだった。あきらかに鮫はずっと前から何も食べていなかったのだ。そして当てのはずれた水夫たちがずたずたにされた屍体を海に捨てようとしたとき、水夫長の注意は内臓の一つにぴったりとはまりこんでいた何かごつごつしたものに引きつけられた。
「やあ、あれは何だろう?」と彼は叫んだ。
「あれか」と水夫の一人が答えた。「岩のかたまりだよ、おもしにするために呑みこんだんだろう」
「へえ!」と別の水夫が言った。「何のことはない、こいつは鎖弾〔当時、敵艦の帆柱を破壊するために用いられた砲弾〕だよ。この悪党は腹にこいつを食らったんだが、それが消化(こな)れずにまだ残っているんだね」
「まあいろいろなことを言うな」とヨットの航海士であるトム・オースティンが答えた。「おまえらにはわからないのか、この野郎は札つきの酔っぱらいで、損をすまいとしてワインだけではなく壜(びん)まで呑みこんでしまったのさ」
「何?」とロード・グレナヴァンは叫んだ。「この鮫の腹にあるのは壜なのか!」
「ほんものの壜です」と水夫長は答えた。「ただし、こいつは地下の酒倉から出て来るのじゃありませんや」
「よろしい、トム」とロード・エドワードは言った。「気をつけてその壜を取ってみなさい。海で見つかった壜にはよく貴重な文書がはいっていることがある」
「ほんとにそう思っているのかね?」とマクナブズ少佐が言った。
「すくなくともそういうことがあり得るとは思っているよ」

……一 「バランス・フィッシュ」より


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