「グラント船長の子供たち(中)」

ジュール・ヴェルヌ作/大久保和郎訳

ドットブック版 536KB/テキストファイル 180KB

400円

捜索はつづく。大西洋上の孤島トリスタン・ダ・クーニャへ、アフリカ南端のケープタウンを越えてインド洋上のアムステルダム島へ。そして一路オーストラリアへ。だがそれは新たな苦難の始まりだった。ヴェルヌの「驚異の旅」シリーズ第五作。
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 もしヨットが赤道を辿ったとすれば、オーストラリアをアメリカから隔てる、より正確に言えばベルヌーイ岬をコリエンテス岬から隔てる一九六度の経度は、一万八七二〇キロメートルに相当する。しかし三七度線では同じ一九六度は地球の形状の結果一万五一八〇キロメートルにしかならない。アメリカの海岸からトリスタン・ダ・クーニャまでは三四〇〇キロメートルを算するが、ジョン・マングルズは東の風がヨットの船脚を遅らせなければ一〇日でこれを横切れると思っていた。ところで、まさに満足すべき成行きになった。夕刻になって風はいちじるしく鎮まり、次いで方向を変え、〈ダンカン〉は静かな海上でその比類のない長所をことごとく発揮することができたのだ。
 乗客たちはその日のうちからもう船上生活の習慣をとりもどしていた。彼らが一ヵ月も船から離れていたようには見えなかった。太平洋の水を見た目の下に大西洋の水がひろがっていたが、ちょっとしたニュアンスを除けばどの海の水も似ていた。自然は彼らを恐ろしい試練に遭わせた後、今では力を合わせて彼らを助けていた。大海原はおだやかで、風はいい方角から吹き、西の微風にむかって張った帆ははためいて、ボイラーのなかにたくわえられた疲れを知らぬ蒸気と協力した。
 この快速の航海はそれゆえ、事故も故障もなくおこなわれた。一同は安心してオーストラリアの岸が見えるのを待っていた。可能性は確実性に変った。人々がグラント船長のことを話す口ぶりは、どこかのはっきり決っている港へ彼を迎えに行く時のようだった。彼の船室と二人の水夫の寝台もヨットのなかに準備された。メァリ・グラントは自分の手でその船室を整えたり飾ったりして喜んだ。この船室はミスタ・オルビネットが譲ったもので、ミスタ・オルビネットは今はミシズ・オルビネットと部屋をともにしていた。この船室は、ジャック・パガネルが〈スコシア〉に予約していたのと同じ例の六号室の隣だったのである。
 博識な地理学者はほとんどいつもその船室にとじこもっていた。彼は朝から晩まで『アルゼンチン領パンパシアで一地理学者の得た崇高な印象』という著述に励んでいた。彼が思いうかんだ高雅な文章のいくつかを、ノートの白いページに書き下す前に感動をこめた声で口に出しているのが聞こえた。そして彼が歴史の女神であるクリオにそむいて、感激に溺れて敍事詩的な壮大な事績をつかさどるカリオペイアの加護を求めることも一再ではなかった。
 その上パガネルはそれをかくしはしなかった。アポロの清らかな娘たちは喜んで彼のためにパルナソスの、あるいはヘリコンの頂から降りて来るのだった。レイディ・ヘレナは心からそれを彼に祝した。少佐もまたこうした神の訪れについて彼に祝詞(しゅうじ)を述べた。
「しかし何よりもうっかりしないでくれよ、パガネル君」と彼はつけくわえた。「もしかしてオーストラリア語を勉強しようという気になったとき、シナ語の文法書でオーストラリア語を勉強したりしないでほしいね!」
 こうしたわけで船の上では何もかも上々に行っていた。ロード・グレナヴァンとレイディ・グレナヴァンはジョン・マングルズとメァリ・グラントを興味をもって観察していた。彼らは何一つ文句を言わねばならぬところは見出さなかった。そしてたしかに、ジョンが何も言わない以上、特別気にかけないでいるほうがよかった。
「グラント船長はどう思うだろう?」とある日グレナヴァンはレイディ・ヘレナに言った。
「ジョンはメァリにふさわしいと思うでしょう、エドワード。そしてそれは誤りではないわ」
 そうするあいだにもヨットは目的地にむかって高速で走りつづけた。コリエンテス岬が見えなくなって五日後、一一月一六日に、快い西風が感じられはじめた。これは、南東から絶えず吹く風に逆らってアフリカの先端をまわって行く船には非常に具合のいい風である。〈ダンカン〉はすべての帆を張り、フォースル、スパンカー、トップスル、トガンスル、スタディングスル、檣頭帆、ステースルを左舷開きにして思い切ったスピードで走った。スクリューは船首に切られて逃げて行く水をほとんど噛まず、そうなると船はロイヤル・テイムズ・クラブの競争用ヨットと勝負しているように見えた。
 あくる日になると大洋は巨大な海藻に蔽われて、草が一杯にはびこった広い池のように見えた。近くの大陸からさらわれて来た樹木や植物の残骸から成るあのサルガッソの海のようだった。モーリー艦長がこのサルガッソのことを特に航海者たちに注意している。〈ダンカン〉はパガネルが適切にもパンパスに比した長々とつづく草原の上を滑って行ったが、その速度は多少鈍らされた。
 二四時間後、夜明けに見張りの水夫の声が聞こえた。
「陸だ!」
「方角はどちらだ?」と当直のトム・オースティンがきいた。
「船から風下の方向に」
 いつ聞いても人を感動させるこの叫びにヨットのデッキはたちまち人で一杯になった。間もなく船尾楼から望遠鏡が持ち出され、それにすぐつづいてパガネルが出て来た。
 学者は望遠鏡を教えられた方向にむけたが、陸みたいなものは全然見られなかった。
「雲のなかを見てごらんなさい」とジョン・マングルズが彼に言った。
「なるほど、尖った山みたいなものだね、まだほとんど見えないが」
「それがトリスタン・ダ・クーニャです」

……二 「トリスタン・ダ・クーニャ」より


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