「フレンチ警部最大の事件」

クロフツ/長谷川修二訳

ドットブック版 211KB/テキストファイル 204KB

600円

ロンドンのダイヤモンド商社の老支配人が殺され、総額3万3000ポンドにのぼるダイヤモンドが金庫から消えた。金庫の鍵は銀行の保管する一つと、社長がつねに身につけている一つの二つしかなく、合鍵をつくれる可能性はないといってよかった。フレンチ警部は決め手に欠ける状況証拠ばかりのなかで苦戦をしいられる。だが、ついに手がかりの糸口を得たとき、警部は執拗にくいさがっていった。「足の探偵」の異名躍如の名編。

クロフツ(1879〜1957) イギリスのミステリー黄金時代を代表する巨匠のひとり。犯人の堅牢なアリバイをくつがえす「アリバイ崩し」の作風がとくに有名。デビュー作の「樽」はクリスティの「スタイルズ荘の怪事件」と同年に刊行され、黄金時代の幕をあけた。アイルランドのダブリン生まれ。17歳のとき鉄道会社にはいり、以後1929年に作家としてひとり立ちするまで鉄道技師として勤務、ミステリーを書き始めたのは40代になってからだった。なかでも「足の探偵」フレンチ警部ものが人気を博した。

立ち読みフロア
 ロンドン旧市内のハットン・ガーデンを取りまく裏通りの景色は、一番いい時期でも、愉快とか爽快とかいうものではない。幅が狭く、見すぼらしくて、両側の建物というのが醜(みにく)くむさくるしい上に、それが町の煙と霧(きり)にすすけ、ペンキを塗りかえないもので、よごれ放題になっているから、われらの住む二十世紀文明の高揚に熱心な人が見れば、まず間違いなく失望するに違いない。
 明るい太陽の出ている昼間ですら、そんなに陰気なのだから、これが十一月中旬の、ある侘(わび)しい夜の十時であったのだから、もっと陰気くさいものであった。湿った霧にかくれがちな、うるんだ月が、鎧戸(よろいど)をおろした家々の正面を青白く照らしていた。空気は冷え冷えしていたし、少し前まで降っていた小雨のために、歩道は黒く見えた。その雨もやんでいた。歩く人もまれだったし、よほどの用でもないかぎり、戸外に出る人もなかったのである。
 この辺でも道幅が狭く、魅力に乏しいハックリー通りは、まったくのところ、ただ一つの人影が見えるほかは、猫の子の姿もなかった。文明の高度な、道徳的な面は、見えすぎてはいないものの、決して欠けていたわけではない。その人影は法律と秩序とを代表していた。つまり、巡回中の警官だったのである。
 ジェームズ・アルコーン巡査は、ゆっくり歩いていた。歩きながら、機械的ではあるが馴れた目つきで、受け持ち区域の鎧戸がおりた窓や、事務所や倉庫の入り口を見る。元来あまり空想的な人間でなかったからいいようなものの、さもなかったら、この警官は任務の退屈と単調さを、今よりもっと激しく痛感したに違いない。みじめだよ、旧市内の夜の巡邏(じゅんら)というやつは、と思いながら、彼は辻に来て足をとめた。そして、四方に放射する小汚い、わびしい横町を代わるがわる一つずつ見通した。何という不景気な横町だろう! 何一つ起こらない! 腕を見せる機会ひとつ起こらない! 昼間は通りが賑やかだし、向こうから声はかけないにせよ、人間の姿も見えるから、そう悪くもないが、夜ときたら、眺めようにも人間はいないし、来る気遣いのない機会を当てもなく待つ以外に手はないのだから、まったくありがたくない仕事だ。彼はうんざりした!
 しかし、当人は知らなかったが、腕を見せる機会が手近にあったのである。チャールズ通りを通り抜け、いよいよハットン・ガーデン区域に踏みこんだとたんに、突然、少し下った所にある扉が勢いよく開けられ、若い男が闇の中に駆け出してきた。

……冒頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***