「ぎろちん」

ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳

ドットブック版 352KB/テキストファイル 139KB

500円

監獄の中庭に集まった見物人たちは、死刑囚が断頭台の露と消える瞬間を、いまや遅しと待っていた。死刑囚ラモンは朝の冷気のなかを、二人の典獄につきそわれて断頭台への階段をのぼっていった。だが彼の恋人バベットは、ラモンを助ける最後の望みを捨ててはいなかった──たとえ、はかない望みではあっても……。この表題作のほか、「万年筆」「穴」など6編を収めたアイリッシュ短編集第5弾。

ウィリアム・アイリッシュ(1903〜68) ニューヨーク生まれ。コロンビア大学でジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学は中退。34年からミステリ短編を雑誌に書き始め、42年の長編「幻の女」で一躍サスペンス・ミステリの人気作家となった。哀愁味あふれる美しい文体から「サスペンスの詩人」と呼ばれたりする。本名コーネル・ウールリッチ名義で書いた作品も多い。

立ち読みフロア
 監房の窓にならんだ四本の鉄棒の、おのおの左がわを、銀色の条(すじ)が一本、ちょうど寒暖計を水銀柱がのぼっていくように、すーっと匍(は)いのぼっていった。ただそれだけだった。窓ごしにみえる空は、あいかわらず黒一色にひろがっている。
 鍵のがちゃつく音がして、監房の格子扉のちょうつがいが軋みをたててまわりはじめた。戸口にたっているのは、典獄と、床屋のようなみなりをした助手の二人だった。
 ラモンは一晩中まんじりともしなかった。いまさら、なにが気がかりなのだ? これから思うぞんぶん眠れるというのに。むしろ、あるのは眠りだけだというのに。
 かれはゆるゆると首をまわした。相手の用がなんであるかを、十分知りぬいている人間のしぐさだ。
「もうきたのか? まだ夜も明けてないじゃないか」
「あと五分もすれば明けるさ」
 というのが返事だった。
 二人は冷水であふれそうな金だらいと、ニッケルの容器にはいったシェイヴィング・クリームの棒とを持ちこんだ。クリームのほうは典獄の私物だった。きっと、片方ばかりで擦るくせが、あるにちがいない。棒の片側だけがばかに減って、鑿(のみ)のようなかたちになっていた。
 助手は金だらいをベッドのはしにのせたが、その水がすこし、ガソリン臭い毛布の上にこぼれた。
「いれすぎるからだ。風呂をつかうわけじゃあるめえし」
 と、ラモンがちゃかした。
「カラーをはずすんだ、ラモン」
 と典獄がいった。
 ラモンは衿もとのボタンをはずし、グレイ・フランネルのシャツを裏返してくつろげた。
「頭をさげろ」
 ラモンは頭をたれ、そのままにしていた。助手はたらいの水を手で一すくいすると、ラモンの顎のまわりにふりかけた。ラモンはそのショックにぎくっとして、顔をしかめた。
「起きぬけにつめてえ水をつかうぐらい、いやなことはねえよ。ちょっと温めるぐらい、してくれてもよかりそうなもんだ!」
 典獄はなんとも答えなかった。助手が棒状のクリームをもって、ラモンの顎筋から左右の耳のあたりまで撫でまわすようすに、余念なく見いっていた。床屋は顎や頬にはちかづこうともせず、もっぱら頸筋だけを撫でまわしていた。典獄が剃刀をとりだして助手にわたした。
「じっとしていろよ。傷をさせたくないからな」
 床屋は客にそう注意した。
 ラモンは肩ごしにふりかえると、皮肉な視線をなげながらいった。
「つまり、本番のときまでは、つまらん傷はつけたくねえっていうんだろう」
「やめてくれ」
 典獄はむしろ哀願するようにいった。義理のある相手を、いやいや説きふせるときの調子だ。
 床屋も口をそろえて、
「顎をさげていろよ。おれはいたって気の短いほうだし、それに、ここの照明ときたら、おそろしく暗いからな」
 かれは客の後頭部へ顔をちかづけると、口のすみから舌の先をちょっとのぞかせて、ためつすがめつしていた。やがて剃刀が、頭蓋骨の基底部から脊椎骨の最上端まで、ながくていねいに撫でおろされた。シャボンの泡がめくれおちると同時に、それと一しょにかたまった髪も束となって、ごっそり床におちた。そのあとの肌は髪のそりあと特有の、あの清潔なバラ色にかがやいていた。
「タルカムを忘れたぜ」
 と、ラモンがひやかし半分にいった。
 典獄は、よしてくれんか、とくさりきったように哀願した。
「なにが、そんなに心配なんだ。おれの頸に、二、三本でもほつれ毛が残っていると、ばっさり斬り落せないとでもいうのか? よほどなまくらな刃とみえるな」
 ラモンの口調は皮肉たっぷりだった。
 典獄がそれに答えて、
「理由はないさ、ただのしきたりだ。なにも、私が発案者というわけじゃない。まだみんなが髪を編んでうしろにたらしていた当時、ギロチンが手で操作されていた時代からの慣習らしい」
 助手は金だらいと剃刀をもって出ていった。しばらくするとこれも慣例の、銀の盆にラム酒のグラスをのせてきて、それを無言で囚人にさしだした。
「やあ、こいつはありがてえ。けさはめっぽう冷えこむからな」
 ラモンはきゅーっ、きゅーっと、たった二た息でのみほし、ちょっと咳こんだあと、グラスを返した。
「タバコはどうだ?」
 助手は上っぱりのポケットから、紙巻を二本ばかりとりだした。ラモンは一本をとって、アパッシュふうに垂直にくちびるにつっこむと、ぞんざいな口調でつぶやいた。
「共和国政府は気前がよくていらっしゃる。こんなゴチになって、だいじょうぶかい?」
 典獄は硫黄マッチを靴のうらですると、手でかこって差しだしてやった。ラモンの吹きあげるもうもうたる紫烟のために、監房内は霞がかかったようにかすんでしまった。それがやっと晴れたとみると、戸口から一人の牧師がなかを覗きこんでいた。
 ラモンは、もう結構だというように、そっちへ向かって手をふった。
「ねがいさげだよ。ぎりぎりの土壇場へきてまで、嘘はつきたくねえ」
「したたかなやつだ」
 と、典獄が助手のほうへいった。かれは、がさがさ音をたてて一枚の書類をとりだすと、自分がこの小部屋の中心へくるように、すこし位置をかえて、一番咳ばらいをしてみせた。
「気をつけ」
 ラモンは嘲(あざけ)るように眉毛のすみから目礼した。
「アルマン・デュラン殺害のかどにより、有罪の宣言をうけ――」
「なにか、おれの知らねえ話をしてくれよ」
 と、ラモンが半畳をいれた。

……「ぎろちん」冒頭より


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