「八点鐘

ルブラン/保篠龍緒訳

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卓抜した頭脳と勇気を持つレニーヌ公爵(またの名アルセーヌ・ルパン)は、某伯爵家の城館で美しいオルタンス夫人と出会う。朽ち果てた古塔を探索した二人は、塔の古時計が二十年ぶりに八時を告げる音を聞いた(八点鐘)。その塔に隠された男女の骸骨から過去の失踪事件の謎をあばいたレニーヌ公爵は、オルタンスを助手にして、次々と不可解な難事件に取り組む。八番目の事件が解決し、八時の鐘が鳴ったとき、二人は……。
ルブラン得意の、意表をつく八編の内容構成と特異な事件の数々は、読者を最後まで惹きつけ、飽きさせない。ルパン物の中でも本格的なミステリーとして評価の高い傑作。

モーリス・ルブラン(1864〜1941)フランスの推理作家。ルーアン生まれ。小説家としての長い不遇の時代の後、40歳のとき書いた「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が大評判となり、以後「ルパン」シリーズを書き継いだ。ルパンの作者としてレジヨン・ドヌール勲章を受章。 長編の代表作に「水晶の栓」「奇巌城」「813」などがある。

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 オルタンス・ダニエルは、窓を細目に開けて、あたりをはばかりながら、「いらして? ロッシニイさん?」
「ええ、来ました」
 屋敷の下の繁った植込みの中から男の声が答えた。
 半身を窓から突きだしたオルタンスが下を見おろすと、そこにやや肥った、赤ら顔の、気味がわるいほど濃い顎髯(あごひげ)を生やした男が、こちらを見上げていた。
「どう?」と男がいった。
「あのね。わたしね、昨夜、叔父や叔母と大議論をやってしまいましたの。でも、わたしの持って来た持参金を良人(おっと)がすっかり使い尽くしてしまったものですから、わたしの公証人が、その金だけは弁償するという一札(いっさつ)を入れて貰いたいといって、その証書の草稿まで送って来たのに、どうしてもそれに署名しないというんです」
「しかし、叔父さんはあなたの結婚契約の責任者ではありませんか」
「だめよ、どうしてもきかないんです」
「で?」
「でも、あなたは私を連れて行って下さる?」
 彼女は笑いながら訊いた。
「むろん」
「まあ嬉しい。その一言を忘れちゃいけませんよ」
「どんなことでもおっしゃるままです。僕は気狂いになるほどあなたに惚(ほ)れています」
「そう。お気の毒ね。わたしの方ではそれほどあなたを慕(した)ってもいないわ」
「死ぬほど慕ってくれとはいいませんが、少しは思って下さいよ」
「少しは? でも、あなたは随分いろいろ要求してるじゃないの」
「それなら、なぜ僕を選んだのです?」
「偶然よ。わたしはもうここの退屈な生活にあきあきして、なんでもいいから一つ冒険をやってみようという気になったのよ。さあ、これがわたしの鞄(かばん)……取ってちょうだい」
 彼女が二つの革製の鞄を窓からおろすと、男は両腕に抱えるようにしてそれを受け取った。
「これで、もう運命の賽(さい)が投げられたのね」と彼女はいった。「あなたは自動車で先に行って、あの街道の四ツ角のところで待っていて下さい。わたしはじきに馬で追いつくわ」
「だが、馬まで連れて行かれないよ」
「馬はひとりで屋敷へ帰るわ」
「よろしい! ところで、ちょいと……」
「何ですの?」
「あのレニーヌ公爵とかいう──三日前からここに来ている人──彼はいったい誰ですか。この辺ではまるっきり見かけない人だが」
「わたしもよくは知りませんが、なんでも叔父が狩猟のお友達のところでご一緒になったので、お連れしたそうです」
「ふむ、そうですか。あなたは大層あの男がお気に召したようですね。昨日なんかも二人で遠乗りをやったじゃありませんか。だが僕は、どうも虫が好かない」
「そんなことどうだっていいじゃないの。どうせわたしは二時間とたたないうちに、この屋敷から駈落(かけお)ちする身なんですもの。後でそれを聞いたら、あの方だってきっと愛想がつきるでしょうよ。もうこんな話は止しましょう。一刻もぐずぐずしている場合じゃないわ、あなた」
 しばらく彼女は、男の立ち去るうしろ姿を見送っていた。男は両手に彼女の鞄をさげて、身をかがめながら並木道の木蔭に沿って小急ぎに歩いていった。それを見届けてから、彼女は窓を締めきった。

……「古塔の秘密」冒頭より


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