「途中の家」

エラリー・クイーン/青田勝訳

ドットブック版 322KB/テキストファイル 232KB

600円

若手弁護士ビルは、妹の夫からの電報で呼び出され、船着場近くのあばら家に行くと、義弟は死体になっていた。容疑は妹にかかるが、意外にもこの義弟はニューヨークに別の妻を持つ重婚者であった。二つの職業と、二つの名前を持つこの男は、どちらの人間として殺されたのか。ビルは友人のエラリー・クイーンに真相の解明を依頼する。物語は巧みな伏線により、意表をつく結末に導かれる。作者が自選ベスト3に選んだ意欲作。

エラリー・クイーン
エラリー・クイーンは、従兄どうしのアメリカ人作家フレデリック・ダネイ(1905〜82)とマンフレッド・B・リー(1905〜71)の共同のペンネーム。二人は同年、ブルックリンに生まれ、典型的なニューヨーカーだった。1929年、クイーン警視の息子エラリー・クイーンが登場する『ローマ劇場毒殺事件』でデビュー、その後『ギリシア棺謀殺事件』『エジプト十字架事件』『フランスデパート殺人事件』などの「国名シリーズ」、『X』『Y』『Z』『最後の悲劇』からなる4部作の「悲劇シリーズ」など、最高の傑作を生み、アメリカ・ミステリー界を代表する作家となった。のちには「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)を創刊し、編集者・アンソロジストとしても活躍した。

立ち読みフロア
一 悲劇 THE TRAGEDY

『――その芝居は《人間》という悲劇、そしてその主役は、征服者《うじ虫》』
  エドガー・アラン・ポー The Conqueror Worm

「トレントンはニュージャージーの首都です。人口は、一九三〇年の調査によれば――男、女、子供を含めて――十二万三千三百五十六人でした。英国政府の知事ウィリアム・トレントの名にちなんで、最初はトレンツ・タウンと呼ばれていたのです。――クロペンハイマーさん、このことをご存じでしたかな――むろんデラウェア河にのぞんでいます。おそらくこれは、合衆国でもっとも美しい河でしょう」
 やせこけた小男が用心深くうなずいた。
「デラウェアはですな、ジョージ・ワシントンが例のヘッセ人〔米国独立戦争の時、英国の使ったヘッセ人の傭兵〕を完全に打ち破ったところなのです。ちょうど一七七六年のクリスマスでしたな」といって、その肥った大男は陶器製の大コップに、ぶ厚な鼻をつっこんだ。「ものすごい嵐の中をワシントンは兵士を舟にのせてデラウェア河を渡り、残虐なヘッセ人に不意打ちをかけたのです。味方は一人も損害をださなかったと歴史にあります。その場所が、クロペンハイマーさん、トレントンなのです」
 クロペンハイマー氏はやせた小さな顎(あご)をこすりながら、相手をなだめるように何かつぶやいた。
「しかも――」と肥った男は大コップを口からはなして、「いいですか? トレントンは国会議事堂の所在地になりかけたのですぞ。事実、一七八四年には、この小さな町に国会が召集されて、この河をはさんで連邦政府の都を建設する決議さえしたのです」
「しかし」とクロペンハイマー氏はおずおずといった。「国会議事堂はワシントンにありますが」
 肥った男はせせら笑った。「そこが政略です、クロペンハイマーさん、なぜかというと……」
 気味のわるいほどハーバート・フーヴァー〔米国第三十一代大統領〕に似ているその肥大漢は、クロペンハイマー氏のカサカサの耳に向かって、トレントンの輝かしい来歴を、とうとうと弁じたてた。隣りのテーブルにいた鼻眼鏡をかけた痩せぎすの青年は、すっかり感心して、自分の前の豚の関節肉と塩漬けキャベツの皿と、隣りの長広舌(ちょうこうぜつ)とに神経を半々に使い分けていた。その肥った男が内気な男に何ものかを売りつけようとしていることは、エドガー・アラン・ポー式の推理を働かせないでも容易に判断できたが、ではいったい何を売ろうとしているのだろうか? まさかトレントンの町を売るつもりではあるまい……。そのうちにクロペンハイマー氏が、「ホップ」といったのが聞こえ、やがてまたしかつめらしい声で、「大麦」という言葉を洩らすにおよんで、青年の疑問はたちどころに解消した。クロペンハイマー氏が醸造業者の代表であり、肥った男がこの町の商業会議所の代弁者であることは、疑う余地がなかった。「醸造工業には理想的な土地です」と肥大漢は反(そ)り身になり、「そうですとも、上院議員! そこでですな、クロペンハイマーさん……」
 謎が解けたので、痩せた青年は聞くのをやめた。関節肉よりも酒よりも、彼にとってはパズルが何よりのご馳走だった。謎と名がつけば、どんなものでも彼の食欲をそそるのだった。だからその肥った男は、彼を三十分間存分に楽しませてくれたのだ。ここはステイシイ・トレント・ホテルの小さなバー・ルームで、男の客たちがいっぱいつめかけ、赤と白のぎょうぎょうしい模様のテーブルクロスが目立ち、木の衝立てのかげではガラス器の触れ合う音がガチャガチャ聞こえるという雰囲気の中にいながら、彼は知らない国に一人で来ている旅行者のような気分だった。州会議事堂の金色の円屋根のすぐ近くにあるせいか、ステイシイ・トレントには彼の知らない言葉を話す人たちが群がっていた。周囲の会話は立法に関する話ばかりなのに、彼は《議員連合》と《幹部会》との区別すら知らない始末だった。やせた青年は溜息をついた。彼はウェイターに合図をして深皿焼きのアップル・パイとコーヒーを注文し、腕時計を見た。八時四十三分だった。ちょうどいい時刻だ。では――
「エラリー・クイーンじゃないか。どうしたい、探偵先生」
 びっくりして彼が見上げると、彼と同じくらいの背かっこうで痩せぎすの青年が、両手をひろげて笑いながら彼を見下ろしていた。「ビル・エンジェルか」エラリーはうれしそうに言った。
「まさかこの眼の見ちがいじゃあるまいな。まあ坐れ、ビル。だしぬけにどこから現れたんだ? ウェイター、もう一杯たのむ! 何だってきみは――」
「そう一度にいろいろ言うなよ」とその青年は笑いながら椅子に腰を下ろした。「あい変らず、きみはせっかちな男だ。ぼくは知り合いの男を探しにここにきたのだが、きみを見てきみとわかるまでに一分かかったぜ、あきれたもんだ、このアイルランド人め。ところでその後どうしていた?」
「あっちへ行ったり、こっちへ行ったりだ。きみは、フィラデルフィアに住んでたんじゃないかな」
「そうだ。今は私用でここに来てる。きみはあい変わらず嗅ぎまわってるのか?」
「狐は毛皮を変えても」とエラリーは諺(ことわざ)をもちだして、「習性は変えないものさ。もしお望みならラテン語でいってやろうか? ぼくの古典がよくきみを悩ませたものだったな」
「あい変わらずだな、エラリー。トレントンへ何の用で来たんだ?」
……冒頭より

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